切腹は自らを母と同一視し、その胎内にもどる行為
このことについての例を引用して示すと、「硬い心、鉄の錨(アンカー)のように硬い心、と彼は何度も口の中で言ってみた。するとどうしても自分の正真正銘の硬い心を、手にとって見たくなった」(『午後の曳航』)という文があり、また『太陽と鉄』と題した評論は自伝的なものであり、太陽=父に対している鉄というのは作者自身以外の何ものでもないのである。三島由紀夫が「持ち前の硬い心を本当の石に鍛へ」(『太陽と鉄』)たいのは太陽=父に対抗しようとするためである。
自己の象徴として鉄を選んだ三島由紀夫は、常人とは異なった行動を取ってきた。この種々の行動の中でここで最も奇異に感ずる切腹を取り上げてこの文の終わりとしたい。
くり返しになるが、まず、三島文学では一度の違いもなく海は母の象徴であることを思い出して、次の文章を読んでいただきたい。
「中尉は血の海の中に俯伏していた」(『憂国』、傍点は筆者)。「血のように生あたたかい環礁のなかの湖」(『午後の曳航』)、また『朱雀家の滅亡』の中で、おれいが、「あの子は死ぬと同時に、青い空の高みからまっしぐらに落ちてきて、ここへ(と自らの腹を叩く)、ここへ、この血みどろの胎の中へ、もう一度戾って来たのですわ。もう一度賤しい温かい血と肉に包まれて、苦しい名誉や光栄に煩わされることのない、安らかな眠りをたのしみに戾って来たのですわ。今こそ私はもう一度、ここにあの子のすべてを感じます」と言っている。
三つの例を挙げたが、これらはすべて、死の後、血の海、血のような湖、で表されている母の胎内に帰ることを暗示しているのである。これらから切腹は自らを母と同一視し、その胎内にもどり、母の血潮にまみれるのだという三島由紀夫の願望を表していると言ってもよいと思う。