たとえば、宦官(かんがん)の仕組みは日本に合わないとして取り入れませんでしたし、科挙も世襲制の影響が強い日本では根付きませんでした。一方で、仏教や禅、茶道は取り入れ、日本風にアレンジして発展させていったのです。
アジア以外の人々は、日中韓3カ国の歴史や文化の違いに詳しくありません。欧米や中東の人たちに日中韓の共通項と相違点について話す機会は非常に多いのですが、いつもその関心の強さを感じます。
日本と中国の交流は、いつから始まったのか
1万2000年くらい前までは日本列島は、大陸と地続きであったといわれます。その頃すでに縄文時代が始まっていました。
縄文時代の遺跡として有名なのが、青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡です。ここから出土した土器や装飾物には地元以外の地域との交流をうかがわせるものが多数あります。
大陸からの影響で日本の生活に大きな変化をもたらしたものの一つに、稲作の伝来があります。岡山県の南溝手遺跡からは3000年ほど前には稲作が実施されていたことがわかっています(諸説あります)。大陸のどこからどのように伝来したかについては、諸説あり定まっていません(清水徹朗「〈レポート〉農林水産業稲作の起源と縄文農耕論」『農中総研調査と情報2019・3・第71号』)。
中国大陸との関係がより明確な形で検証されるのは、もっと後のことで、中国で編纂された『後漢書』のなかでふれられています。日本の歴史は、日本の書籍よりも中国の書籍において明確な形で現れてくるのです。
紀元5世紀に編纂された『後漢書』には、1世紀に倭の奴国からの使者が後漢の光武帝(こうぶていから)印綬を与えられたことが記されています。この時の印綬が志賀島(しかのしま)で発見された金印『漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)』。一般には18世紀の終わりに甚兵衛という農民がたまたま発見したといわれています。1700年にわたり島の土のなかに眠っており、農民にたまたま発見されるとは、歴史は偶然の発見で綴られていくものであることがわかります。
当時日本には文字がありませんでした。日本の周辺国で文字があった大国は中国です。中国は歴史書として自国や周辺国について記録を残してきた国。多様な民族を抱える中国では、文字によって社会を束ねる必要がありました。