父と同居を始めた長男家族だったが……
被相続人が生前、寝たきりや認知症になった場合、自分でお金を下ろすことは難しくなります。そのような状況のなか、同居していた相続人が勝手にお金を拝借してしまい、のちのちトラブルになるケースがあります。今回は、そのような家族の話です。
Aさんは三人兄弟の長男。Aさんの下には妹と弟がいました。兄妹はみな結婚し、それぞれ幸せな家庭を築いています。ある日のこと、母が亡くなりました。長年の闘病の末のことで、父も覚悟はできていたそうです。
「お母さん、やっと楽になれたなぁ」
ずっと苦しい思いをしてきただろう母をねぎらう父。葬儀はしめやかに執り行われました。そこで三兄妹が心配したのは、残された父のこと。実家で一人暮らすのを心配でした。ひと肌脱いだのは、長男であるAさん。
「父さん、よかったらうちで一緒に暮らさないかい?」
「そんな、お前の家族に迷惑はかけられないよ」
「うちは全然構わないよ。奥さんともきちんと話して、『お父さんさえよければ、ぜひ』って。空いている部屋もあるから、遠慮はいらないよ」
「ありがとう。少し考えさせてくれ」
思いもしなかった、長男からの申し入れ。妻と長年過ごした家を離れるのは寂しいけれど、高齢となった今、一人で暮らすのは不安がある――。少し悩みましたが、長男家族の厚意に甘えることにしました。そう決意した後、自宅を売却。昨今の地価の高騰で、想像以上に高く売れました。
「ふたりとも、これからよろしく。自宅なんだが、結構な金額で売れた。貯金だってしっかりある。だから甘えてくれ」
そう言って、父はふたりに貯金通帳を渡そうとしました。
「何言っているんだよ、父さん。これは父さんの大切なお金だ。大丈夫、本当に大変な時は甘えるから、この通帳はきちんとしまっておきな」
もともと派手なこととは無縁で、倹約家の父。長男家族にしても、食費が幾分多くなる以外、負担はほとんどありませんでした。むしろ家事を積極的に手伝ってくれる父に、長男の妻は「お父さんが来てくれて、すごく楽をしているわ、私」と喜んでいました。
そんな幸せな日々が長い間続きましたが、父は高齢です。同居を始めて5年後、認知症と診断され、さらに徐々に介護も必要になったのです。施設に入ってもらうことも考えましたが、Aさん家族は最後まで自宅での介護にこだわりました。その3年後、父は天国へと旅立っていきました。
問題は、父の遺産の分割方法について話し合うために、三兄妹と長男の妻が集まった場で起こりました。
「兄貴、この通帳を見てくれ。ちょっとおかしくない?」と次男がたずねてきました。
「なになに」と、長男よりも先に首を突っ込んできた長女。問題の貯金通帳を見ながら言いました。「たしかに、毎月50万円も引き落とされている。お兄ちゃん、何なのこれ?」
「あの、これはお父さんの介護費用で……。毎月いただいていたんです」と長男の妻。
「そっ、そうなんだ、父さんからの申し出で、毎月50万円をもらっていたんだよ」と長男。
「えっ、それはおかしいだろ。父さん、認知症だったんだぞ。そんな判断できるか?」
「そうよ、それに認知症が発症したのって、3年前よね。この通帳見たら、それよりも随分前……8年も前から引き出されているわ。1年で600万円だから、5000万円近くも! おかしいわよ、絶対!」
そうなのです。結局ふたりは父から通帳の管理をまかされ、やがて、父には黙ってお金を引き出すようになっていました。そのお金は貯蓄にまわすこともあれば、買い物や旅行などに使うこともあったのです。
「でも介護で、色々大変だったんだよ」と長男。しかし、
「いいかげんなこと言うなよ。介護保険だってあるだろう。月に50万円もかかるわけ……」と次男が言いかけたとき、長男の妻が怒鳴り声をあげました。
「お父さんの面倒を見ていたのは、私達よ! お母さんが亡くなった時、お父さんが心配だって言うだけで、ふたりは何もしなかったじゃないですか! それくらいのお金、もらう権利が私達にはあるわ!」
「化けの皮がはがれた。相続人でもないあなたが、何を言っているのよ。結局はお父さんのお金が目的だったんでしょ」と長女。
「これは財産の勝手な使い込みだよ。横領だよ、裁判、裁判!」と次男。
「望むところよ!」と長男の妻。急に変貌した妻に長男は委縮し、三人の争いを静かに見ていました。
相続対策よりも「認知症対策」が重要
事例のような、遺産の使いこみが原因の相続トラブルは結構あります。しかし「同居しているのだからいいだろう」「介護をしているんだから、これでも足りないくらい」などと、使い込んだ側が使い込みを認識していないケースも多くあるようです。
しかも事例の場合、父が認知症を発症していたのもやっかいでした。認知症を発症すると、発症後に作成した遺言書の効果が問われるなど、厄介なことが多くなります。
よく筆者のところにも「親が認知症になってしまったのですが、今からできる相続税対策はありますか?」という問い合わせを受けます。それに対して「残念ながら、今からできる相続税対策は一切ありません」と伝えています。
税金対策ができないだけなら、まだよく、本当に恐いのは、「デッドロック」と呼ばれる現象です。これは、不動産などの所有者が、認知症等により自分の意思が示せなくなると、売ることも貸すことも取り壊すこともできなくなる、つまり、誰も手が付けられなくなる現象のことです。
もし不動産の所有者が認知症などにより、判断能力が低下してしまった場合、その家族は、その人の不動産を代わりに売却することはできるでしょうか?
答えは父の代わりに売却することは、原則として、できません! また認知症や精神障害などにより、判断能力が低下してしまった人を法的に支援する制度に「成年後見制度」という制度があります。判断能力が低下してしまった人のために、親族や弁護士、司法書士などが後見人となり、その本人に代わって財産管理や契約行為を行うことができる制度です。では後見人に頼めば、その人の不動産を売却する手続きを進めることはできるのでしょうか?
答えは、特別な事情がない限り、原則できません。こうして、不動産を売却することも建替えたりすることもできなくなってしまうのです。このような状態のことをデッドロックと呼ばれているのです。
事例の場合は、認知症発症の前に自宅を売却したので、その点は救われました。使い込みに関しては、まずは話し合いを行い、そこでまとまらなければ、不当利得返還請求などの対抗処置がとられるでしょう。
厚生労働省のデータによれば、なんと65歳以上の28%は、すでに認知症であるかその疑いがあるといいます。相続対策よりも、認知症対策のほうが緊急度、重要度が高いと言えるかもしれません。
【動画/筆者が「認知症対策として家族信託」をわかりやすく解説】
橘慶太
円満相続税理士法人