「マルサ」はある日、突然やってくる
ピンポーン――。午前7時。従業員20名ほどの製造業を営む後藤さん(仮名)が、いつものように出社後のコーヒーを楽しんでいると、突然インターホンが鳴った。
営業開始は午前9時。それより早く人が訪ねてくることはほとんどない。
「誰かな、こんな時間に……」
後藤さんが訝いぶかしげに事務所のドアを開けると、スーツ姿の男性が「後藤さんですね。国税局査察部です」と捜査令状を見せるやいなや事務所のなかにドカドカと入り込んできた。
訳もわからずその場に立ち尽くす後藤さんを横目に、スーツ姿の捜査官たちが次々と押し寄せ、事務所のいたるところから書類やパソコンを持ち出していく。
狭い事務所はすし詰め状態になり、それから夜9時頃まで延々と調査が続いた。後藤さんは膝が崩れ落ちそうになるのをこらえながら、ただ呆然と見守るしかなかった……。
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これはある企業に脱税調査が入った様子を描いた実例です。会社が特定できないよう仮名にしていますが、全体の内容はおよそこのとおりです。
国税局査察部(通称、マルサ)とは、法人や個人の脱税を調査する専門部隊のことを言います。対象となる企業や人物が証拠隠滅を図らないよう、事前に入念な下調べ(内偵)を行い、確証を得たうえである日突然、臨場先(調査を行う場所)に踏み込み、調査を行います。
マルサは裁判所の捜査令状を持って調査に着手するため、対象者は拒否することができません。これを「強制調査(通称、ガサ入れ)」と言います。
「強制調査」に乗り出す時間は朝の7時から8時。その時間帯に調査の対象者が臨場先に所在しているのを事前に把握し乗り込みますから、空振りはありません。強制調査に入る捜査部隊は100人超と大規模で、集中的にガサ入れを行います。
調査に入ったマルサは社長室や金庫はもちろん、経理担当者の机やロッカー、トイレまで怪しいと考えられる場所は徹底的に調べ尽くし、会計帳簿や領収書、納品書、契約書をはじめとした各種書類のほか、ファックスやメールの履歴、パソコンの保存データや銀行口座の入出金履歴などを差し押さえます。
映画『マルサの女』(伊丹十三監督・1987年)で、調査官が焼却場のゴミをかき分けて資料を探す印象的なシーンがありましたが、あれは誇張ではなく事実です。マルサは必要とあらばゴミまであさり、脱税の根拠となる資料を見つけ出していくのです。
物的証拠だけではありません。査察官は何げない会話から経営者や従業員の心の動揺を見抜き、脱税につながる情報を聞き出してしまいます。
マルサに踏み込まれると絶対に逃れられない――そう考えたほうが賢明でしょう。
先ほど紹介した後藤さんの場合、マルサに睨まれたきっかけは内部告発でした。「社長が利益を抜いている」と匿名で国税局に投書が寄せられたのです。脱税が発覚するきっかけは、このように内情を知る人物が情報提供することが少なくありません。
後藤さんは父親が創業した会社を50代で引き継ぎ、製造拠点をアジアに移転するなど、精力的に経営改革を行ってきました。ところが「魔がさす」とはこのことを言うのでしょう。アジア進出の際に、あるコーディネーターから現地の投資の儲け話を持ちかけられ、彼はまんまと乗ってしまったのです。
後藤さんはいわゆる「架空外注費」を計上して会社の利益を持ち出し、そのコーディネーターを介して投資の契約を結んでいました。〝存在しない外注費〞を支払うと見せかけて、実際には親族の銀行口座に資金を振り込んでいたのです。
そうしたやり口をマルサが見抜けないわけがありません。除外した利益の受け皿となっていた親族の銀行口座を内偵の段階で突き止めて、資金の動きを把握し、冒頭の強制捜査に踏み切ったのです。
後藤さんが架空外注費として捻出した金額は3億円に上りました。その目的は海外での投資により会社の将来を安定させることです。しかし、3億円の脱税容疑で刑事告発され、執行猶予付きの有罪判決が言い渡されることとなったのです。
納税資金準備のため、すべての資産を失う
脱税で有罪になったことで、後藤さんは2つの問題を抱えることになりました。
まずは納税資金の問題です。脱税行為により、後藤さんには1億9800万円の追加の納税と罰金が科せられたのです。本来であれば、海外での投資資金を解約すればそれほど苦労もなかったのですが、コーディネーターを介して契約した投資からの回収は困難な状況でした。
しかし、事情がどうであれ追加納税分の1億9800万円は支払わなくてはなりません。後藤さんは自身の預貯金を全額引き出したうえ、国内に所有していた複数の不動産をすべて売却。それでも資金が不足したことから、最終的に家族の支えである自宅まで手放すことになったのです。
もうひとつの問題は、社会的な信用です。刑事告発されると、その内容が新聞に掲載され、これまで積み上げてきた信用が失しっ墜ついします。そのため、後藤さんは自身の手では事業の再建は不可能と判断し、息子に会社を譲って組織体制を一新しました。現在、会社は新体制で事業を再開し、取引先との信用をゼロから築き上げている最中です。
父親の会社を継いで10余年、休む間もなく必死に働き、「そろそろ後継者の息子に事業を譲って、後はゆっくり旅行でもしようか」と妻と話し合っていた矢先の出来事でした。ちょっとした気の緩みからすべての資産を失い、家族まで路頭に迷わせることになってしまったのです。
脱税の定義は「仮装隠蔽」
会社を経営していると、「売上や経費を少しくらい調整してもバレないだろう」という思惑にかられる瞬間があるものです。しかし、「少しくらいなら……」と心が一瞬動いたとしても、その一歩を本当に踏み出してしまう経営者は多くはありません。
ところが、日本国内における脱税の摘発が後を絶たないのも事実です。国税庁の発表によると、平成26年度に脱税で摘発された金額は年間150億円に上ります。この金額はマルサによる「強制調査」によって摘発された事案みで、税務署による「任意調査(事前に調査対象の了承を経て行われる調査)」を含めると、脱税額は国税庁が発表した数字の10倍以上に膨れ上がるのではともいわれています。
脱税はギャンブルと同じで、なかなか後戻りができないものです。真面目にコツコツと事業を続けてきたにもかかわらず、一度脱税に手を染めてしまうと、そのままズルズルと違法行為を続け、手口や金額も次第にエスカレートしてしまいます。そしてある日突然、マルサに踏み込まれて「我に返る」のです。
脱税を行う経営者の多くは、初めから脱税をしようと思っているわけではありません。「脱税」という言葉を見聞きしたことはあっても、その定義をきちんと理解していないため、「気がついたら脱税になっていた」というケースも多くあります。
現行の税法では違法な手段を用いて〝故意に〞納税を免れる「仮か装そう隠いん蔽ぺい」に当たる行為が「脱税」とされると定義されています。
たとえば、ありもしないタクシー代の領収書を発行し、経費を水増しする行為は「ないもの」をねつ造していますから「仮装」に当たります。あるいは売上の一部を銀行から引き出して自宅の金庫などに隠す行為は「あるもの」を隠していますから「隠蔽」に当たります。
これらの行為が意図的であることが証拠によって明らになった場合、脱税となるのです。つまり、その行為の目的が課税逃れだったかどうかではなく、仮装隠蔽行為があったかどうかがポイントです。
辻 正夫
みのり税理士法人 所長税理士