本記事では、交通事故裁判における問題点や矛盾点を取り上げます。

なぜ、交通事故裁判では被害者が泣くケースが多いのか

保険会社、損害保険料率算出機構、その他様々な壁にぶつかり、等級認定、補償額など、その一方的で不条理なやり方に泣かされてきた被害者が、最後に頼るのはやはり裁判所である。しかし、私たち交通事故被害者の弁護を専門に扱う者から見ると、この頼るべき裁判所自体がむしろ被害者にとっての大きな壁となっているケースが多々見られるのである。

 

そしてこれまで見てきた交通事故補償の様々な問題をたどっていくと、結局のところ司法の最高権力である裁判所の判断と態度にその多くが帰着するのではないかという結論に達する。それほどまでに裁判所の影響力は大きく、またそれゆえに期待も大きいのだが、だからこそ現在の交通事故補償における裁判所のやり方には不満と落胆が大きいのである。

 

その一つがあまりにも硬直化した証拠主義である。もちろん裁判の基本として証拠を最優先することは当然である。ただし現状を見ると、あまりにも証拠にこだわりすぎ、明らかに被害者の損害や不利益があると想定されるにもかかわらず、それを頑として認めない裁判所のやり方にはやはり不満を感じざるを得ない。

 

例えば後遺障害の等級に関して神経症状で12級を主張しても、画像所見や器質的損傷といった他覚的所見はないということで14級にとどめられてしまう。そもそも神経症状であるから画像に映らないのだが、たとえ主治医の意見書がそれを認めるものであっても等級を上げず、器質的損傷や画像所見にこだわる姿勢は保険会社と変わりがない。

 

こちらとしては「またか」という感覚である。すでに自賠責の等級のやり取りの段階で保険会社や損害保険料率算出機構と戦ってきているのである。そこでどうにもラチがあかないので裁判にもつれ込むわけであるが、その結果裁判所がいうことは彼ら保険会社と同じ論法であり判断なのだ。

 

ところで損害保険料率算出機構が徹底した証拠主義で頑なに器質的損傷や画像所見にこだわるのも、ある意味わからないことではない。彼らは膨大な数の等級認定を「公平、迅速」に行わなければならない立場である。そのためには例外を認めず、画一的に大量処理をすることが必要になる。

 

しかし、裁判所に関してはそのような条件や制約はないはずである。むしろ裁判所の役割としては、例外的なものや特殊事情のあるものなどをより個別に精査し勘案することで、画一的で大量処理的に等級認定されることの弊害を是正する役割があるはずだ。実際我々もそのような裁判所の判断を期待して訴訟に踏み切るわけであるが、前述のような保険会社と変わらない対応と判断をされると、一体何のためにわざわざ裁判にまでかけたのかという気持ちになってしまう。

 

もう一つは書面中心の審理である。実は法曹の卵である司法修習生が交通事故の裁判実務の進め方として最初に学ぶのが、「書面中心の審理」と「和解の積極的な活用」の2つなのだ。

 

この書面中心の審理が、実は被害者側にとって著しく不利になるということを指摘しておかなければならない。そもそも書面中心主義というのは交通事故に限らず、民事裁判全体について貫かれているスタンスである。

 

証拠主義にも通じるのだが、要は人の証言には嘘が多く、完全に信用するには足りないという考えが前提になっている。だから裁判においては客観的な証拠となる文書を重く見て、人の証言や訴えは低く捉える。それ自体、民事事件に関しては有効な姿勢であることは間違いないだろう。利害の発生するものに関して人は自分に都合のよい証言をしてしまうことが多い。

 

一方、書類や業務メモなどは客観的な真実を語るものであり、歴然とした証拠になる。ただし、こと交通事故の訴訟に関して書面中心の原則だけを振りかざすのは適切だといいきれるだろうか? 交通事故において被害者側が用意できる文書は、基本的には警察の作成した実況見分調書と主治医の診断書や意見書くらいのものである。

 

では、被害者側が用意できるこの限られた書面を裁判所がどのように扱うかというと、実際に被害者を診療してきた主治医の意見書、これが最重要視されるのであればまだよい。しかし現実は違う。例えば実際に被害者の治療をしたわけでもない保険会社側のお抱え医師が文書で反論すると、平気でそちらの主張が認められたりするのだ。

 

画像の判断や医学的判断は、一義的に明白なものではなく、解釈によるところが大きい。そもそも画像は医師にとって補助診断であり、臨床所見と併せて総合的に判断する際の参考となるものである。そのような画像に対して疑わしいというのは簡単なのだ。そして、さらに何か反論があれば再び新たな意見書や診断書を提出せよというのだが、そうそう被害者側の主治医が頻繁に書類作成に応じてくれるべくもないのである。

 

一方保険会社側はどうかというと、お抱え医師はもちろん、独自の調査会社を有し、様々な専門的な書類を作成して裁判所に提出することが可能だ。仮に被害者が裁判所で尋問の機会をもらったとしても、裁判所は医師ではないので、医学的判断はしない。痛いといっても後遺障害を認定してはくれない。主治医が裁判所まで出向いてくれるかというと、いちいち交通事故の患者にそこまで付き合ってくれる医師は少ないであろうし、第一そのようなことを求めれば、誰も交通事故を診てくれなくなる。

 

書面中心の審理をするというなら、主治医の判断を最重要視すべきで、被害者を診察もしていない保険会社側の医師の意見書を等価に見る限り、書面中心主義の審理は被害者側には決して有利には働かない。

あまりに保険会社側に偏った賠償システム

私たちは裁判で後遺障害の等級を上げるべく戦っているのだが、裁判所で等級を上げさせるのはかなり困難であることを身にしみて感じている。だから勝負は裁判に訴える前、審査会に異議申立てをしたり、自賠責保険・共済紛争処理機構に紛争処理申請をすることで何とか等級を上げることにしている。

 

そもそも裁判所は、自賠責の基準にも保険会社の基準にも縛られる何物もないはずである。もちろんそれらの基準を参考にすることは重要であるが、無条件に従う必要はどこにもない。しかし実際の等級認定と逸失利益の算定にあたっては、なぜか自賠責の等級にこだわり、その判断からなかなか離れられないのが裁判所の現実である。

 

確かに問題があるとはいえ後遺障害の等級表は便利で有効なものでもある。これによって立証しなければならない負担が減って、保険の等級認定においても裁判においても迅速性とある程度の公平性を確保することができたことは事実である。ただし、だからといって何でも等級表に寄りかかり、機械的にこれに当てはめて等級を決めてしまうことは、裁判所として適切な対応であり判断といえるのだろうか?

 

まったく新しい概念で損害額を算出しろなどとはいわないが、自賠責の等級表の数字だけに縛られた判断ではなく、裁判所独自の判断や見解がもっとあってもおかしくない。例えば労働能力喪失率は等級表の数字だけに縛られる必要があるのだろうか。同じ器質的障害を負ってもそれによって経済的にどれくらいの損失が生まれるかは、被害者の年齢、性別、職業によって違うはずである。

 

個別事例を扱う裁判所であれば、等級表だけに縛られずもっと柔軟に裁量してもいいのではないか。百歩譲って裁判所が自賠責の認定に拘束されるなら、せめて公平に拘束されてほしい。裁判所は労働能力喪失率や喪失期間について自賠責の認定を被害者に不利に変更することはあっても、有利に変更することは極めてまれなのだ。

 

先日もある被害者の事件で、それは紛争処理機構を通じて12級の認定を受けているのだが、保険会社が例によって非該当を主張しているため「紛争処理機構の結論だけでは認定できない」と裁判所からいわれた。主治医の意見と、それと合致した紛争処理機構の結論があっても、まだハードルが続くわけである。みなさんが被害者の立場ならどう思われるであろうか。

 

あるいは逸失利益を労働能力喪失率だけで算定することが果たして妥当か? 嗅覚を失ってしまった場合の嗅覚喪失自体は12級認定であり、決して高い等級ではない。これはあくまでも労働能力の喪失を基準にしているためで、嗅覚喪失自体で労働に大きな支障はないという判断である。

 

確かに労働能力という意味において、嗅覚はさほど重要な感覚ではないかもしれない。しかし日常生活において嗅覚を失うということは大きな損失である。匂いはもちろん、味覚にも影響する。五感の一部を失うのであるから本人の喪失感も大きなものがある。しかし労働能力の喪失ということに限れば、低い等級で甘んじなければならない。しかも、裁判では嗅覚喪失は逸失利益として認められないのである。

 

このように後遺障害においては被害者の生活利益に関してはほとんど考慮されない。逸失利益はあくまで本人の収入が減った分を補償するものであるから、生活利益の補償に関しては慰謝料で補うべきだという考えもあるだろう。では12級の慰謝料はいくらになるかというと裁判所基準で290万円となっている。嗅覚を失ってわずか290万円である。被害者の生活利益の損害、喪失感や精神的なダメージを考えるとあまりにも安すぎる金額ではないだろうか。

 

損害賠償に関して、保険会社が自社の利益を守るために消極的で硬直化した認定に傾くのは致し方ないとしても、裁判所は諸般の事情を鑑みつつ、より個別に、より自由に損害賠償を算定してもいいはずである。そしてそれが現在のあまりに保険会社側に偏った賠償システムを是正し、我が国の損害賠償制度をさらに発展させていくことにつながるはずである。しかるに現状を見る限り、裁判所はとてもそのような役割を全うしているとは考えられないのである。

 

 

谷 清司

弁護士法人サリュ 前代表/弁護士

 

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    本連載は、2015年12月22日刊行の書籍『ブラック・トライアングル[改訂版] 温存された大手損保、闇の構造』から抜粋したものです。その後の税制改正等、最新の内容には対応していない可能性もございますので、あらかじめご了承ください。

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