知らず知らずのうちに労働法に違反している可能性も
まず、第一にあげられるクリニック特有のリスク要因は、経営者が医師であり、「人事労務に関してはまったくの素人である」ということです。
そもそも、適切な人事労務管理を行うためには、労働基準法(労基法)など労働法に関する最低限の知識が求められることになります。
しかし、医師のほとんどは労働法について学んだことがなく、また興味・関心を持ったこともないはずです。
例えば、医師自身によって書かれた次の一文は、医師が労働法に対してどれだけ無関心であるのかをありありと伝えてくれるでしょう。
「私が医師になったばかりの今から約20年前に、「医師に労基法はない!」と私たちは洗脳され、徒弟制度のような修練を受けた。もっとも、学生上がりで浅学な私たちは、「患者さんのためになりたい」という一心で、さらなる「勉強」を強いられ、自らにも強いてきた。多くの若手医師は、自分の業務を労働と思わず、「勉強」と思っている。受験地獄・受験戦争をくぐり抜けた真面目で世間知らずな人たちは、勉強を労働とは思っていない。」(中島恒夫著『安心な医療体制を築くために―医師の労働環境とそのsustainability』)
このように医師の世界では、医業が労働と思われていないのです。そのような世界で生きてきた人たちが、労働法に関する知識や興味・関心を持たないことは当然といえば当然のことかもしれません。
もちろん、医師が労働法の知識を持たなかったとしても、勤務医として病院等で働いている立場にいる限りは、さほど大きな問題はないといえるかもしれません。労働法の知識がないために不利益を受けるのはあくまでも当の医師自身だけであり、他の第三者がそのために困るようなことはありません。
しかし、クリニックの経営者として人を雇う立場になれば話は別です。労働法の知識が不十分なままクリニックの運営を続ければ、法に反した人事労務管理が行われる危険性があります。その結果、雇われているスタッフが何らかの不利益や被害を被る恐れがあるかもしれません。
不満があれば、スタッフはためらわず退職していく
その場合、院長とは対照的に、スタッフの多くは労働法についてじゅうぶんな知識を得ることができます。インターネットにアクセスすれば、労働法についてわかりやすく解説してくれるサイトや、労働条件に関する疑問にすぐに答えてくれる相談サイトがいくらでもあります。例えばスタッフが「今勤めているクリニックでは残業代がまったく支給されないが、おかしいのではないか」などと疑問を持てば、それらのサイトを通じてすぐに正しい知識を得ることができるわけです。
このようにインターネットで得た労働法の知識を武器に、「なぜ、院長は労働基準法を守ろうとしないのだ」などと労務管理の杜撰さを厳しく追及してくる、それが今の多くのスタッフたちの姿なのです。
なお、下記の図表は、全国の総合労働相談コーナー等に寄せられた個別労働紛争の相談件数を示したものです。2002年は10万3194件だったのが、2017年は25万3005件と約2.5倍に増加しています。その背景には、右で述べたようにインターネットの普及等により、スタッフが労働法の知識を得て、自らの権利を声高に主張するようになった状況があると推測されます。
[図表]個別労働紛争の相談件数
そもそも医療従事者は、他の職種に比べて転職先を見つけやすい職業です。年中どこのクリニックでもスタッフを募集しています。ことに、恒常的に人手が足りない看護師、歯科衛生士などの有資格者に対しては、常に求人の門戸が開かれているといってよいでしょう。
そのため、クリニックのスタッフの大半は職場で少しでも気に入らないことがあれば、「いくらでも勤め先はある」と我慢することなくすぐ辞めてしまいます。
また、今の勤め先に不満がなくても、給与や休日などの条件がよりよいところがあれば、「こちらで働きたい」とすぐに転職してしまう傾向も強くみられます。
他のクリニックの労働条件や職場環境は、看護学校や歯科衛生士学校などで知りあった友人・知人たちを通じて容易に知ることができますし、またインターネット上の求人・転職サイトなどからもそうした情報を得ることは可能です。
なかには、通勤途中に、クリニックに掲示されていた求人募集を見て、「今の職場よりも条件が良い!」と職場を移ってしまうような人もいます。
院長は、今自分が雇っているスタッフが、このように、その気になればいつでも辞めてしまう、またそれが簡単にできてしまう状況にあることをしっかりと認識しておく必要があるかもしれません。
髙田 一毅
みなとみらい税理士法人 髙田会計事務所 所長 税理士