ディーラー職として年収は億を超えていたが・・・
(本インタビューは前回からの続きです)
─A証券は未経験者を集めていた、ということは、固定給があったわけですね?
はい、その通りです。通常、給与の5倍くらいが会社側の雇用コストといわれていますが、そのあたりを基準にインセンティブ(売買益に対する報酬)をもらえるシステムでした。
月給から計算した基準が150万円ならば、ひと月の売買益について150万円を超えたら、その超えた部分がインセンティブを計算する基準です。もちろん、未経験者ですから、1年間の猶予がありました。
経験者に売買させて成績が悪いと数カ月でクビ、といった一般的な契約ではありません。僕は、その1年間で成績を安定させるための計画を立てて臨みました。
─どんな計画だったのですか?
「ひと月の利益」について漠然と目標を立てるのではなく、損失と利益の金額を別々に計算したのです。
相場なので、負けをゼロにすることはできません。勝ったり負けたりが当然です。だから、まずは損失も利益も、それぞれの金額を大きくしようと考えました。
同じ売買内容で、株数も回数も増やせば達成できますよね。そのあと、損失を抑えるように工夫しよう、と。大ざっぱにいうと、こんな二段階の構えで成績を伸ばそうとしたのです。
─機能しましたか?
はい、うまくできたと思います。この計画というか、考え方の根底に、A証券の厳しい教えがあったと思っています。
日々の成績をチェックされる、ダメだとしかられる・・・言葉はきつかったのですが、日々の成績、個々の売買結果を丁寧に考え、相場と真剣に向き合う気持ちをつくってもらったのです。
─現在は個人トレーダー兼個人投資家のコーチですが、それまでずっとディーラー職だったのですか?
証券ディーラーとしては、A証券のあとに数社を経験しました。
A証券でも、腕のいい先輩が他社に移籍したあとトップになりましたし、2社目ではディーラー職として最も稼ぎ、年収で億を超えました。でも、もっと優秀な人はたくさんいました。そんな中、自分の売買を分析して、常に〝その場〟しか見ていないと感じたのです。
目の前の戦場に突進し、「対応」といえばカッコいいのですが、ちょっと力業のような技術で乗りきるスタイルだと思ったわけです。ディーラーとして大勝ちはできない、超一流プレーヤーにはなれない、という気づきですね。
その課題を解決するために、ディーラーではなくファンドマネージャーになろうと決めました。
─そんな転職が可能なのでしょうか?
おっしゃる通り、一般的にはナシですよね。
デイトレードが主体のディーラーをファンドマネージャーにする会社はありませんし、逆に、ファンドマネージャーがデイトレードの鉄火場で通用すると考える人もいません。だから少し苦労したのですが、どうにか、かんぽ生命のファンドマネージャー職に就くことができました。
”リーマンショック”真っ只中で得たチャンスとは?
─それはすごいですね。株を扱ったのですか?
いえ、最初は債券のファンドマネージャーでした。
これが、ものすごく勉強になる世界でしたね。新しい分野ですし、債券市場を観察することでマクロ経済を見る、目指していた〝高い視点〟で金融市場を見ることができたからです。
─かんぽなら、扱う金額もデカかったでしょう?
そうなんですが、なぜだか部署にいる人数が少なくて、扱う金額が大きいわりには業務が細分化されていなかったのです。たった数人で、銘柄選定だけでなく、証券会社とやり取りして玉(ぎょく)を集める作業まで、幅広くやりました。
しかも、発行額が大きい国債を買っておけばいい、というのではなく、利回りを考えて、地方債や社債にも積極的に資金を投入するよう求められたのですが・・・例えば地方債の発行額が全体で6000億円なのに「4000億円分買え」なんて、ムチャなオーダーをこなすのです。
全共連(※)と玉を取り合う間柄で、証券会社の担当者と仲良くなろうと頑張ったり、夜討ち朝駆けで連絡して情報を引き出したりと、そんなことをした思い出があります。
※全共連
全国共済農業協同組合連合会。JA共済の資金を運用する団体。
─まるで、個人投資家相手のドブ板営業ですね(笑)。
かなり泥くさい雰囲気でしたね。でも、金額がデカいので、とにかく面白い仕事でしたよ。
大手証券に電話して、その月の引受額が700億円だと聞いて、「全部ちょうだい」とか。地銀が絡んだ私募債があると聞いて、「それ、全額はがしてきてくれ」と証券会社に頼むとか。
実は、部署に3人しかいなかったのに、もともとシステム関係だった上司が、そんな多忙な中でうつ傾向になり、ほとんど会社に来なくなったんです。僕が28歳、もうひとりの先輩が29歳、その2人だけで仕事をしていた時期もありました。
ファンドマネージャーとして銘柄を選ぶ、トレーダーとして証券会社から玉を調達する、本来ならバックオフィスの人が行う入力作業まで、すべてを2人でこなすので、日々の業務に組織という雰囲気はなく、まるで個人投資家のような感じでしたね。
「これ、どうですかね」「よし、買っとけ!」・・・大切な資産を預けている人が聞いたら目が点になるような会話でした(笑)。
─成績は、どうだったのでしょうか?
ドタバタでしたが仕事の質は高く、成績は優秀でした。
例えばリーマンショックの時は、多くの金融機関が手持ちの債券を売却しようとしました。でも相手がいない・・・。債券は、株とちがって相対取引が基本、流動性が極めて低いじゃないですか。だから、悪い状況で投げようとしても、買い手がつきにくいわけですよね。まあ、ふつうなら野村證券が黙って引き取ってくれるところ、当時は、そんな頼りの綱の野村も買わないほどヒドい状況だったんです。
でも、僕たちにとってはチャンスでした。投げる必要はなく、逆に買う側でしたから。他社の投げものを、形式だけ野村経由にして買い取ったりしていましたね。
─かんぽでは、ずっとファンドマネージャーだったのですか?
現場で頑張っていたら、運用計画を立てる部門に引っぱられました。
─アセットアロケーションとはちがうのですか?
アセットアロケーションの一環、と考えてもらえばいいと思います。まずは、システマチックにはじき出した運用計画があるのですが、市場の実態や実際の玉集めを考え、机上の計算を実行可能なものに修正するんです。「この金額はムリだよ」という感じで・・・。
そんな仕事を経験することもできたので、本当によかったと思っています。
最後は、株のファンドマネージャーになり、かんぽには合計で7年間いました。