恩師の推薦イェール大学への留学が決定
外科人工透析を専門に学ぶことになったのち、大学病院での6年間の研究と研修医生活を終え、7年目にまた医師として働き始めました。
ちなみに、大学での研修医時代は無給です。当時はどこの国立大医学部でもそうだったはずです。最近の事情には詳しくありませんが、いずれにしても無給なうえ、宿直など大変な役割は研修医に多く回ってくるようで研修医の過労死事件が起き、問題となりました。その事件を受けて研修医の待遇が変わったという話も聞きます。
いずれにしろ当時の私たちは給料なしで、千葉大学出身の開業医または病院でアルバイトをさせてもらうことでわずかな収入を得て、何とか暮らしていました。
7年目に大学から命じられて出張した先は、社会保険(現JCHO)船橋中央病院の外科です。1977(昭和52)年のことです。ここでようやく正式に給料をもらうことができる生活となりました。
この年に私は、大学の同級生から呼び出されて会った女性と結婚することになりました。ここでも笑い話になるような出来事が多々あるのですが、その詳細については割愛します。妻は台湾出身東京育ちで薬剤師をしていた女性です。ただこの妻との出会いは、のちにまた不思議な縁を感じさせる話につながることになるのです。
結婚したのが77年の秋。新婚生活が始まった途端に、私は翌年の春、米国に留学することになりました。私の恩師であり、大学の第二外科研究室のトップだった平澤先生が、当時米国のニューヨーク大学からイェール大学へと留学しており、近く帰国することになりました。平澤先生の代わりとなる医師が誰かいないか、という話が私に回ってきたのです。予想もしていないことだったので、これには驚きました。
私は、受験で苦労したように英語が苦手だったにもかかわらず、「海外に行きたい」と以前から熱烈にアピールしていました。本当はほかの先生を、という話もあったのですが、一人で騒いでいた私を思い出した平澤先生は、本当に白羽の矢を立ててくれたのです。
研究の場を求めて選んだ、モントリオールのマギル大学
翌78(昭和53)年3月、私は新婚の妻を連れて、イェール大学医学部へ留学することになりました。これが新婚旅行代わりにもなったのです。
私の専門は人工透析なのですが、どうもイェール大学では思ったような研究ができませんでした。私がまだ英語を流暢に話せなかったことも一因かもしれません。医学部のトップは経営者でした。例えば新聞社でも、日本では記者のなかで有能だった人物が社長に収まることが多いですが、米国では記者は記者、新聞社の経営は経営を専門に学んだ人物が担うことになっています。それと同じです。医療と経営はまったく異なります。積み重ねてきたお互いの経験がまったく違うのですから、至極合理的です。
どうもイェール大学では反りが合わず、すぐ翌年、自分でアプリケーション(出願書類)を書いて申請し、米国内の大学2校、米国最大規模の非営利法人クリーブランド・クリニックやマウントサイナイ医科大学、カナダの大学1校からすべてOKをもらい、イェール大学を離れることになりました。
合格した複数のなかから選んだのが、カナダのケベック州モントリオールにあるマギル大学です。というのも、そこには世界で初めて人工細胞を研究開発していた、トーマス・チャン教授が籍を置いていたからです。チャン教授はノーベル賞候補にもなったことがあるらしく、カナダのノーベル医学賞候補の推薦メンバーでもありました。
チャン教授の人工細胞研究はまさしく、私が博士課程の論文を書いた人工肝臓の研究につながるものです。