一代で11の医療・介護施設の開業に成功した医師の軌跡から、事業拡大における極意を見ていく本連載。今回は、その第7回です。

世界トップクラスの外科医が在籍する千葉大学医学部

さて、そんな「野武士集団」第二外科に籍を置き、人工透析専門になったのには、実はとても不思議な偶然がありました。

 

千葉大学医学部といえば、当時、中山恒明という高名な教授とその弟子の佐藤博教授が在籍していました。中山教授は1964(昭和39)年に国際外科学会で「世紀の外科医賞」を受賞した、世界トップクラスの外科医です。のちに国際外科学会会長を務め、「サザエさん」で知られる長谷川町子さんのがん手術を担当した際は、本人には知らせずに「もっと連載を続けてください」と病床で励まし続け、机を持ち込んだといわれています。のちに優れたがん医学研究者を顕彰する「中山恒明賞」を創設した、外科医としては名医中の名医です。

 

その尊敬する中山教授、佐藤博教授を輩出していたことから、千葉大学医学部第二外科は日本一の外科だという自負がありました。その門下に入りたいと思ったのがこちらを選んだ一番の理由です。

 

ただこれを機会に言ってしまいますが、心の端には、いろいろとたくさんの勉強が必要な内科よりも、切った張ったのほうが自分には向いているのではないか、という本音もありました。バンドを組んでいた頃、短絡的にドラムを選んだ理由に近いかもしれません。

運命を決めた、平澤先生との出会い

当時の第二外科では、研修4年目に所属する研究室を選ぶことが義務づけられていました。

 

日本で最初の移植は、中山教授が64(昭和39)年に実施した脳死体からの死体肝移植ですが、生体肝移植はまだ行われていませんでした。その後89(平成元)年に日本での生体肝移植が行われるのですが、当時の日本では未開拓の分野であり、先端医療の一つでした。

 

当然、その方面にも興味があり、当時様々な方向を模索中でしたが、ある日にぼんやり考えごとをしながら通路を曲がると、私の尊敬する当時助手の平澤博之先生がいらっしゃいました。平澤先生は研修1年目の時の指導教官であり、「人工内臓研究室」と透析方面ではトップの小高通夫講師(当時)に次ぐ、ナンバーツーです。平澤先生はとても真面目で講義もうまく、魅力にあふれた指導者でした。

 

バッタリと出会った私に平澤先生は、

 

「おお、田畑、ちょっと来い」

 

と声をかけてくれました。

 

その瞬間、私は決心しました。平澤先生となら一生付き合っていける。この人の下で学びたい。そんな思いがふつふつと湧いてきたのです。

 

こうして私は第二外科の「人工内臓研究室」の透析班に入ることになったのです。

 

あの時通路を曲がらずに直進し、平澤先生に出会わなければどうなっていたか。このたった数分間の出来事で、私の将来が決まってしまいました。

 

まさに私にとって運命を決定づける出来事でした。それが、3月下旬夕暮れの千葉大学医学部の通路だったのです。

ドクター・プレジデント

ドクター・プレジデント

田畑 陽一郎

幻冬舎メディアコンサルティング

医療者である開業医が突き当たる「経営」の壁。 経営者としてはまったくの“素人”からスタートした著者は、透析治療を事業の柱に据えて、卓越した経営センスで法人を成長させていく。 徹底的なマーケティング、2年目で多院展…

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