一代で11の医療・介護施設の開業に成功した医師の軌跡から、事業拡大における極意を見ていく本連載。今回は、その第6回です。

学生気分が吹っ飛んだ、教授の一言

だから、大学はひとまずきちんと6年間で卒業できる見込みとなりました。もしかしたら、ギリギリで危うかったのかもしれませんが、卒業できれば万事OKです。あとは国家試験だけ。今の国家試験は当時より難しくなっているのかもしれませんが、私が受けた頃は合格率が高く、普通に大学で勉強していれば大抵は合格できるはずのものでした。ジャズにのめり込んで、常に女の子にモテることを意識していたとはいえ、それは夜の活動だけ。昼間の授業はそれなりにきちんと出席していました。

 

試験の前日、のちに苦楽をともにする親友、大森耕一郎くんと一緒に夜、勉強をしていたときに別の悪友がやってきて、「大丈夫だから、今から花見に行こうぜ」と誘われて、ホイホイとついていったりもしていたわけですが、それでも国家試験には無事合格。晴れて医学部を卒業して研修生の道へと進むことができました。めちゃくちゃではありましたが、楽しい学生生活でした。

 

さて、こうして研修医の1年生となったわけですが、適当な学生運動を経験しているせいで、危うい目にあったことがあります。

 

というのも、学生運動時は全体的に「学生のほうが教授より立場が上」という空気がありました。どう考えても普通ではないのですが、時代のせいでそのように誤解してしまっていたのでしょう。少なくとも調子に乗っていたのは間違いありません。

 

理由は忘れましたが、確か2学年15~16人の新人研修医が学校か教授の指導法か何かに不満を持ち、当時と同じつもりで、何と教授に対して猛抗議を始めたのです。私もそのメンバーの一人でした。様々な理由により、昭和45年・46年卒の卒業生は2学年が同時に卒業しました。

 

教授はちょうどオペを終えて戻ってきたばかりだったと思います。

 

のんびりと私たち若造を見渡し、教授は言いました。

 

「お前ら、好きにすればいいよ。そのかわり、俺の一言でお前らの首がすっ飛んじゃうからな」

 

私たちは何も理解していませんでした。大学での研修は徒弟制度と同じです。どんなことがあっても、教授に従わなければ終わりなのです。そのなかでも私たち新人は、下っ端の下っ端でした。こうした「大学の掟」に気づかされた途端、学生気分は吹っ飛び、私たちは真面目な研修医に戻らざるを得ませんでした。

「明後日から静岡に行ってくれないか」

大学病院においては当時、担当教授は絶対的な存在です。私は第二外科医局に入りましたが、研修期間が6年間あり、6年目の研修医が指導教官として1年目の新人に対し、オペの仕方、糸の結び方などを具体的に指導します。指導は毎日夕方ぐらいから8時ぐらいまで行われ、実際のオペの技術を磨いていくのです。こうした指導や役割分担は入った医局によって伝統的に引き継がれていきます。ほかの医局はまた違った指導方法を取っているはずです。

 

研修1年目は修業期間。それが終わって2年目から3年目までは、大学からほかの病院へ出張研修に行くようになります。その通達もこんな感じです。

 

ある日、トイレで小用を足していた時に教授が隣に立ちました。そこで教授に話しかけられました。

 

「田畑くん、どうだ、最近は元気か」

 

「はい、元気です」

 

「そうか、元気なら明後日から静岡に行ってくれないか」

 

たったこれだけで、大学からの出張が決まってしまうのです。

 

千葉大学には第一外科と第二外科という二つの医局があり、第一外科はもっと紳士的な医局だったのですが、一方の私が選んだ第二外科は教授が圧倒的な力を持って下の者たちを率いるため、学内では通称「野武士集団」と呼ばれていました。

ドクター・プレジデント

ドクター・プレジデント

田畑 陽一郎

幻冬舎メディアコンサルティング

医療者である開業医が突き当たる「経営」の壁。 経営者としてはまったくの“素人”からスタートした著者は、透析治療を事業の柱に据えて、卓越した経営センスで法人を成長させていく。 徹底的なマーケティング、2年目で多院展…

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