「本当に大丈夫なんですか?」
「もう手は打ってある。社員に辛い思いはさせたくないからな」
けっ! 何言ってやがる。榊木らしいかっこつけたセリフに、男は心の中で舌打ちした。社員からの信望は厚いようだが、みんな騙されているんだ。金持ちは自分のことしか考えてねえ。安い給料で死ぬほど働かせ、社長である自分はこんな立派なお屋敷に住んでやがる。社員に辛い思いをさせたくないなんて、聞いて呆れる。
「でも、どうやって切り抜けるつもりなんです?」
「そのうちわかる。まあ座れ」
榊木の落ち着いた声を聞き、男は胸をなでおろした。馬鹿な野郎だ。井上には何も話しちゃいねえ。
ライターのカチッという音が聞こえた後、「それよりも、舞子のことなんだが」と榊木が切りだした。舞子は榊木の後妻で、まだ二十歳そこそこの女だ。
「ああ、そのことですか。やっぱり駄目ですか」
しばし間がある。
「ずいぶん強情な女ですね。何が不満なんでしょう」
「先日、舞子の日記を見てしまった」
「日記?」
「悪いと思ったんだが、つい。そこに、昔の男のことが綴られていた」
「なるほど。そういうことですか」
「だが、私の気持ちは変わらない。何とかしてやりたい」
またライターの音が聞こえ、井上が言った。
「お兄さんの一途な気持ちが通じないなんて、まったくもって不思議ですよ。戦死した男のことをいくら考えても、もう戻ってくるわけがない。それにこの世の中、女が生きる道なんてそうはないんですからね。こんなこと言っちゃあなんですが、新橋のパンパンがまた手入れされたっていうじゃないですか。そうなってもおかしくないんだ」
「そんな言い方はやめろ。舞子はそんな女じゃない」
「あ、これは失敬。僕の言いすぎです。でも」
「もういい。それ以上言うな」
そこで会話が途切れた。
女の話はどうでもいい。犯行計画がばれていなければそれでいいんだ。その場を去ろうと思った男だったが、しんと静まり返っている今はまずい。
「それでだ、お前から聞いたあのことだが」
「ああ、あれですか」
男は不審に思い耳をそばだてた。あのこととはいったいなんだ。
ソファーの軋む音が聞こえ、机の引き出しを引く音がした後、榊木の声が聞こえた。
「これで、どうだ」
少しの間、沈黙が流れ、「これで大丈夫です」と井上が答えた。
「で、どこに?」
「金庫にしまっておく。これは私とお前しか知らない。私に万一のことがあったら、その時には頼む」
「わかりました。でもまだそんな歳じゃありません。ずっと先の話でしょう」
金庫があるのか。中に何が入っているんだ。気になるが、どうせ会社の財産は俺のものになる。今は、余計なことは考えない方がいい。すべてが順調に進んでいる。あとは最後の仕上げが残るだけだ。男は、全身から湧き上がる悦びに、ふと薄笑いを浮かべた。
そこにドアのノックの音が聞こえ、女中が現れた。その機を狙って、男は静かにその場を去った。