複雑な株の持ち合いは何を意味しているのか・・・? アウトローの公認会計士・岸一真が暴き出した驚愕の金融トリックとは・・・? 本連載は、完全犯罪崩壊までの息を呑む攻防を描く瞠目のクライムサスペンス、宮城啓の小説『ヘルメスの相続』を一部公開いたします。今回は、第10回です。

 主な登場人物 

 

あの事件後、東亜監査法人を辞め、財務コンサルティングの個人事務所を始めた。上司からは引き留められたが、もう大組織は懲り懲りだった。事務所の営業は細々としたもので、一人がやっと食っていける程度だ。タバコを吹かしながら暇な一日を過ごし、忘れた頃にやって来る下請け作業をやっつける日々。企業の財務分析、開示資料の作成。まともな仕事などめったにない。公認会計士といっても、この世には掃いて捨てるほどいるのだ。

 

これでもつい数年前は、億の年収を稼ぐ、浮かれた男だった。だが今はこの様だ。

 

とはいっても、またあの伏魔殿には戻れない。俺の精神は、そんなにタフじゃない。今の生活が性に合っていると、自分を慰めながら暮らすほかない。

 

岸は、デジタル時計の日付表示を見た。あと五日で月末。天の助けか。喉から出そうな手を口の奥で止め、乾いた声でアポイント時間を告げた。

 

岸の事務所は、高田馬場駅から早稲田通りを明治通り方面に数分行った先の、雑居ビルの三階にある。このエリアはエスニック料理の密集地と呼ばれているが、このビルも同様だ。上階のミャンマー料理店と下階のカンボジア料理店に挟まれ、東南アジア人にはたいそう人気の場所だったが、専門サービス業の事務所には人っ子一人寄りつかず、閑古鳥が鳴いていた。「これじゃあ、まるでタイだな」友人に言われ、改めて世界地図を見ると、確かに彼の言う通りの場所だった。

 

一週間ぶりにジャケットを羽織り、自宅を出る。落合駅に向かう途中、携帯で永友に電話したが、応答がなかった。本当に知り合いなのだろうか。

 

高田馬場駅で降り、事務所のビルの前に着くと、辺りをきょろきょろしている白人女性と目が合った。

 

「岸さんですね。レイラです」

 

ネイティブに近い日本語だ。年齢は二〇代後半。肩に少しかかるくらいの赤茶色のストレートヘア。真っ白なノースリーブからは盛り上がった胸部。真っ赤なショートパンツからは大腿部が露わに見える。背丈はそれほど高くない。日本人女性の平均よりもちょっと高めといったところか。肩から掛けたブランド物のトートバッグと、品のいい香水の香りから、まともな女の匂いがした。だがその一方で、何となく嫌な予感が漂っている。口ばかり達者で自己主張の強い白人女しか、今までに会ったためしがない。

 

岸の勘が的中したのは、三階の事務所に足を踏みいれた時だった。

 

「うわー、臭い! こんな臭いところで話なんかできないわ」

 

汚物でも見るような表情で口と鼻を手で覆い、事務所の奥の窓を勢いよく開けて、外に向かって深呼吸を始めた。

 

面倒な女だ。白人は自分たちが世界で一番偉いと思っている。そんな奴らを相手に、商売などしたくない。

 

「悪いが、ここは飲食店じゃない。分煙に気を遣う場所が好みなら、他を当たってくれ」

 

「何よ、その言い方」

 

挑むかのような態度で岸を睨みつけた。だがそれ以上は反論せず、事務椅子を窓の下に寄せると、ドカッと腰を下ろした。諦めないところを見ると、切羽詰まった状態なのだろう。

 

すべての交渉事において、その力関係は最初で決まる。下手(したて)に出るとそれがいつまでも尾を引く。こき使われ、値切られ、支払を無視される。だから最初が肝心だ。自分を大きく見せろ。有利な条件を引き出せ。相手の弱みを握れ。かつてのアメリカ人上司から教え込まれたやり方だ。奴らがよくやる手だ。

 

岸は応接用ソファーに腰を埋め、これ見よがしにタバコを取り出して火をつけた。彼女の目の奥が、驚きと憎しみが混ざった色に変わった。

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