男がさらに記事を読み進めると、あることに気付いた。
「秦さん。ここには四大財閥のことしか書いてねえぜ。大丈夫だろうな」
「だから何度も言っただろ。そのうち、解体対象が広がる。浅野、古河、大倉、野村、川崎、日産そしてわが社も対象になる可能性が高い。GHQは甘くない。そうなったら大変なことになる。持株会社は解散。所有株は全部処分させられ、一族をはじめ役員全員が退陣だ。それだけじゃない、財閥の経営者は戦犯として逮捕されるんだ」
「ほほう。じゃあ、榊木実業(さかきじつぎょう)専務取締役のあんたもお縄か」
「いや、俺は大丈夫だ。もう手を回してある」
ちぇっと男は舌打ちした。所詮こいつも金持ちの仲間だ。
ソファーから立ち上がり、今朝の冷え込みで痛みだした右膝をかばいながら、秦に近づく。チンピラ同士の喧嘩に巻き込まれた時には運が尽きたと思ったが、この足のお蔭で徴兵を免れた。ちょっと不自由だが、大したことはねえ。
読んでいた新聞を差し出すと、秦はそれを手に取るなり、机の上にバサッと置いた。このところの心労からか、鬢(びん)の白髪が一層増えたように見える。
「これがうまくいけば、本当に俺の会社にしてくれるんだろうな」
秦の冴えない顔に、憂鬱そうな色が宿る。
「何を言ってんだ秦さん。奴らは会社なんて興味がねえ。借金を返してもらえればそれでいいんだ」
「本当だろうな」
疑いの目で見る秦に、男は内心苛ついた。だが、それをおくびにも出してはいけない。こいつにそっぽ向かれたら、これからの計画がおじゃんだ。
「もちろんだとも。俺を信用していねえのか」
「いや、あんたが奴らと話をつけてくれたのは感謝している。だが、少し心配になったんだ」
「大丈夫。この会社はあんたのもんだ。後腐れなくきっちりと手を引くと、奴らも言ってるから安心しな。あんたはもう組から追われることはねえ」
ほっとしたのか、秦の表情が少し緩んだ。
男は、タバコを取り出し火をつけた。
「あんたがこの会社の社長になれば、すべてが思う通りになる。俺も精一杯あんたを応援するよ。だから最後まで気を抜かずにやることだ」
「わかった。恩に着るよ」
「ところで、今後のことだが」
そう言って、男は大きくタバコの煙を吐き出す。
「本当に預金封鎖なんてあるのか」
急に厳しい目つきに変わった秦は、盗み聞きされていないことを確認するように、誰もいない部屋の隅々にまで視線を運んだ後、ぎこちない頷きを見せた。
「ああ、そうだ。そのうち発表される」
「でも、そんなことがあったら大変なことになる。財閥解体どころの騒ぎじゃねえぜ。預金が引き出せなきゃどう生活しろってんだ。ただでさえ物がバカ高くなってるのに、それこそ飢え死にしろってもんじゃねえか」
「だからやるんだよ。このインフレをどうにかしなけりゃならない。一斉に封鎖し、引き出しを制限して、新円に切り替えるんだ。今の円は使えなくなる」
「本当かよ」
「確かな筋からの情報だ。間違いない」