前回は、ゴーギャンの生い立ちを紹介しました。今回は、大恐慌の影響で生活が一変したゴーギャンの人生を見ていきます。

ユニオン・ジェネラル銀行が破綻、大恐慌へ

前回の続きです。

 

その頃には、アトリエ付きの家に引っ越すほど絵画に夢中になっていたゴーギャンは、最後の第8回まで印象派展に作品を出品し続けました。計5回の参加は、途中で印象派展から離れたルノワールやセザンヌよりも多い回数になります。ちなみに、全8回すべてに参加したのはピサロただ一人でした。

 

高給をもらえる仕事と温かな家庭生活、そして豊かな趣味とすべてを持っていたゴーギャンでしたが、1882年に大変な出来事が起こります。フランスの貿易赤字と金の流出に端を発する、ユニオン・ジェネラル銀行の破綻です。

 

これによってフランスの証券取引所では株価の大暴落が起きて、大恐慌となります。以後の10年間、フランスの国民純生産は減少の一途をたどりました。1991年の日本におけるバブル景気の崩壊、あるいは2007年のアメリカにおけるリーマンショックのようなイメージです。

 

株価の暴落によって株式市場は一挙に冷え込み、ゴーギャンの収入は激減しました。妻と子ども5人を抱えていたゴーギャンは、本来であれば趣味の絵を描くどころではなくなるはずですが、なぜか逆に絵を本業として暮らしていきたいと考えるようになります。

デンマークの妻の実家へ身を寄せるも、再び単身パリへ

1884年、ゴーギャンと一家はパリを離れてルーアンに引っ越します。生活費の安い田舎に移って画家として生きていくためです。しかし、35歳での画家への転身は、当時はもちろん、現代ですら遅すぎるように感じられます。

 

当然、ゴーギャンの絵で生計が成り立つはずもありませんでした。印象派展に何度も参加していたとはいえ、そもそも印象派の絵がなかなか売れない状況だったのです。

 

生活費を稼げない夫に愛想を尽かした妻メットは、その年の末には子どもを連れてデンマークの実家に帰ってしまいます。ゴーギャンも慌てて後を追いました。新天地で新たに画家への挑戦をするつもりだったのです。

 

ところが、デンマークでの暮らしも、ゴーギャンが期待していたようなものになりませんでした。彼は生活を支えるために防水布の外交販売員を始めましたが、言葉の通じない異国での営業は難しく、思うように売れませんでした。

 

妻のメットがフランス語を教えて家計を助けていましたが、その間、子どもたちは実家に預かってもらうしかありません。甲斐性のない婿に対するメットの実家からの視線も厳しく、1885年、ゴーギャンは家族を残してパリに戻りました。メットからの要望だったといいます。

 

ゴーギャンとメットがその後一緒に暮らすことはありませんでしたが、最後まで離婚せず、12年にわたって文通を続けていました。ゴーギャンはしばしば、妻の絵画に対する無理解を嘆いていますが、家族への愛情がなかったわけではないのです。

「値段」で読み解く 魅惑のフランス近代絵画

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髙橋 芳郎

幻冬舎メディアコンサルティング

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