前回は、ゴーギャンが画家へ転身した経緯を紹介しました。今回は、パナマや、カリブなど異国で創作活動を続けたゴーギャンについてを見ていきます。

海外生活に恐れを抱かなかったゴーギャン

前回の続きです。

 

さて、パリに戻ってきて作品制作を続けたゴーギャンですが、絵だけでは生活ができずアルバイトもしなければならなかったため、思うように絵が描けません。そのうちパリの生活費の高さに閉口して、北フランスのポン=タヴァンの画家コミュニティに引っ越します。

 

そしてそのポン=タヴァンで20歳年下のエミール・ベルナールや13歳年下のシャルル・ラヴァルなどの若い画家たちと交流したことで、ゴーギャンに自信が生まれます。年上で弁の立つゴーギャンは、グループのリーダーとして多くの尊敬を受けたからです。

 

その後、ゴーギャンを兄貴分と慕うラヴァルを連れて、親戚のいる中央アメリカのパナマに渡ります。しかし、期待したような援助は受けられず、パナマ運河の切削作業員として働いてお金を貯めて、次にカリブ海にあるフランス領マルティニーク島に滞在します。

 

パナマへ行く前に、ゴーギャンが妻のメットに宛てた手紙には次のように書かれています。「私の芸術家としての声望は日に日に高まっている。しかしその一方で、3日間何も口にできないこともある。これでは健康だけでなく気力も尽きてしまう。気力を取り戻すために、野生の人として暮らすべく、私はパナマへ行く」

 

ゴーギャンという画家を特徴付けているのは、このような頻繁な海外への渡航です。幼少時にペルーで過ごしたことと、商船の水夫として働いていた過去から、ゴーギャンには海外生活への恐れがありませんでした。

 

陶芸も始めたゴーギャンは異文化からインスピレーションも得ていたのでしょうし、他の画家との差別化のために、絵の題材を異国に求めていたのかもしれません。

 

しかし、異国で油絵を描くことはできても、売るのは困難です。1887年、パリに帰国した39歳のゴーギャンは、ゴッホの弟である画商のテオに会って親交を結びます。テオは、マルティニーク島で描かれたゴーギャンの絵を気に入って何枚も購入し、同じく売れない画家である兄のゴッホとゴーギャンを引き合わせます。

浮世絵の影響を受けた、新たな作風と表現様式

1888年、テオから資金を得たゴーギャンは再びポン=タヴァンへ向かい、そこでエミール・ベルナールとともに新たな作風を生み出しました。印象派が光の反射を追いかけるあまり、陽炎のように対象を捉える表現をしていたことに異を唱え、クロワゾニスム(色彩分割主義)という新たな表現様式を掲げたのです。

 

クロワゾニスムとは、暗色でくっきりと描かれた輪郭線の内部を、絵具から出したばかりの純色で塗りつぶしたような平面的な絵画のことで、色彩の平塗りによって輪郭が強調されるものです。

 

日本の浮世絵版画から想を得たと思われる鮮やかな色彩で、自身の中の心象を描くことにこだわった新たな表現で、ゴーギャンらはポスト印象派と呼ばれることになります。また色と色の対比で見るものに心理効果を与えるという表現方法は、その後のフォーヴィスム(野獣主義)の流れへとつながっていきます。

 

当時の代表的な作品を解説しましょう。旧約聖書に記されたヤコブと天使(神)との闘いです。この作品には、異文化である葛飾北斎を導入することで、西洋絵画の伝統を超えようとする野心が見られます。また闘っている二人ではなく、観客の女性たちを大きく後方から写すフレームワーク(いわゆる肩越しになめるカメラ視点)にも、浮世絵の影響が感じられます。

 

闘っている二人の前に大きく存在する曲がった木は、歌川広重の『名所江戸百景第三十景亀戸梅屋敷』の手前の木を連想させます。そもそも、ほとんど陰影をつけずに塗り絵のように輪郭線の内側をべたっと塗っていく技法――印象派のように、光の移ろいではなく物の形をしっかりと描く技法は、明らかに日本の浮世絵のものです。

「値段」で読み解く 魅惑のフランス近代絵画

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髙橋 芳郎

幻冬舎メディアコンサルティング

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