学びたいと思ったとき、「師匠」は必ず目の前にいる
成功してお金持ちになるために必要な〝学び〟についての意識を深めることができたら、次はいよいよ〝学び〟の本番です。前回までに記したように、学びは模倣からスタートします。それでは一体、誰の何をまねすればいいのでしょうか。
野球やサッカーであればテレビ中継でプロ選手の動きを観察できますし、書籍や雑誌などを読めば、一流プレイヤーたちのプレイに対する姿勢や技術論などにも触れることは可能です。同じように、成功するための哲学やメソッドも、書籍化されたり映像化されたりしていますし、インターネットで検索すれば、学習するために必要な有益な情報にも事欠きません。
いずれのまねを始めるにせよ「学びたい」という意欲がなければアクションに移れませんし、具体的に「自分はこうなりたい」という目標がなければ、何に学ぶべきかということも見えてきません。
たとえば、自分はイチロー選手のようなバッターになりたいのか、松坂大輔投手のようなピッチャーになりたいのか、ここが明確でないと、打者を目指すはずなのにピッチング理論を学んでしまうことになりかねないのです。
私は、自分が〝学び〟に目覚めたと認識できたときや〝学び〟を必要としていると自覚できたとき、あるいは「何かを変えたい」という欲求が芽生えたときに、目の前にいる人物こそが師匠だと思います。
師匠の資質は「肩書き」ではない
私は起業家になる前の若いころ、ほんの少しの期間ですがホームレスをしていました。無軌道な生活が経済的な困窮までも招いた結果で、いわば自業自得ではあるのですが、その一般的には人生の底辺とまで言われるはずの期間に、私は人生で最初のメンターと出会ったのです。
そのメンターは当時、私と同じホームレスの男性でした。割と年配の方です。私の最初の師匠は講演家でも成功哲学者でもなく、もちろん有名人であるはずもなく、一般社会から離れたところで生活する、成功とはほど遠いホームレスのおじさんだったのです。
ところが、このおじさん、話をしてみたら元経営者でした。経営が破たんして全財産を失い、行き場を失ってホームレスに落ち着いたそうです。もはや再チャレンジしようにも年齢的に無理。そう自分をあきらめていました。しかし、このおじさん、まだ20歳そこそこの私に説教をしたのです。
「お前さんは私と違って若いんだから、人生をあきらめちゃダメだ。こんなところにいるべきではない。もう1回やり直すんだ。お前ならできる!」
この言葉を会うたびに聞かされて、私の心には、
「やり直してみよう」
という気持ちが、だんだんと高まっていきました。そして、完全に人生を投げていた私が、再び社会に復帰しようという気持ちになったのです。とはいえ当時の私は、このおじさんとの出会いを、現在の私が考えているように重大な出来事としてはとらえていませんでした。再チャレンジをして大失敗して、意欲的に〝学び〟と向き合ってみて、ある日、気づかされたことです。
そこで改めて思ったのは、師匠になってもらう相手に求める資質は肩書きではないということです。師匠は有名でなくてもいいし、盛んに講演やセミナーを開催している大先生である必要もないのです。まわりを見渡せば、師匠の有資格者は身近にたくさん存在していると思うのです。それに、知り合ってからの時間というのも関係ありません。何より私の場合は、最初のメンターが、出会ったばかりのホームレスのおじさんだったのですから。