「駄目だとわかっていたとしても息子に継いでほしい」
「赤星、ほどほどにな。帰らないとまた終電逃すぞ。それじゃ、お先っ」
「おう、お疲れさま」
時間は午後十一時半。同じ部署の同僚が急ぎ足で部屋を後にした。他の部署の蛍光灯が消える中、残った仕事を急いで整理したが、結局その日は終電を逃してタクシーで帰宅することになってしまった。
正道の頭の中は、自分の仕事のことが半分、父親の会社のことが残りの半分を占めている。後半の半分については同僚には相談しづらい内容であったし、タクシーの中は会社の関係者が誰もいないせいもあって、ふと気が緩んだのか思わず口からこぼれた。
「自分が継ぐのかな……」
「どうしました、お客さん?会社かなんかを継ぐのですか?」
前を向いたままの運転手にそう聞かれ、躊躇なく今の自分の状況を説明してしまった。
家に着くまでの雑談程度にしか考えていなかったし、そこになにかしらの答えを求めるつもりはなかったのであるが、タクシーの運転手は意外な反応を示した。
「面白いですね。いやぁね、親父さんたちからも同じような話を聞くもんでね」
「へぇ。その話、興味があります」
「会社を残したいけれども、後継者が見つからないって言うんですわ。息子さんは目立たないタイプで社長の器じゃないみたいだし、他に候補となる人がいても、当人がなかなか首を縦に振らないとかね。その社長の会社、ずいぶんと儲かっているにもかかわらず、後継者のことが一番の悩みだっていうんだからねぇ。我々なんかにはわからん悩みですわ」
「中小企業は経営と所有が一体になっている会社が多くて、なかなか簡単に身内以外には引き継げないんですよ。株や借入金、保証の問題。いろいろあるんですよね」
「お兄さん詳しいんですね。それだったらお兄さんが親父さんを継いでしまえばいいのでは?その社長さん、ボソッと『駄目だとわかっていたとしても息子に継いでほしい』と口にしてましたわ。やっぱりなんだかんだで、自分の子どもが跡を継いでくれるって嬉しいみたいですよ」
車は家に着く直前の交差点に差しかかっていた。既に日付も変わって静まりかえった暗がりの中、家の明かりがポツリポツリと見える。信号が青に変わった。それは少し眩しく思えた。
「覚悟ができたとき、またお越しください」
翌週の土曜日の日中、正道は失礼を承知で、アポなしで水戸の会社を訪れた。
「あの……私、赤星正道と申します。先日のセミナーを一番前の席で聞かせていただいておりまして、もしお時間ありましたら、少しお話をと思いまして……」
その後、会議室に通されて、水戸は突然の訪問にもかかわらず正道の話を丁寧に聞いてくれたのだった。ところが水戸の反応はあっさりしたものだった。
「なるほど。赤星さんの置かれた状況は理解できました。ですが……まだ本気ではないように思います。自身は安全な場所に身を置きながら、慎重に事を進めようとされていますよね?それでは本気の決断、つまり覚悟はまだまだ先になるでしょう」
本気の悩みを伝えたはずであった。アドバイスを受けて解決の糸口が見つかるのではないかと期待していた正道にとっては、予想に反した内容であった。
「私たちフューチャーコンサルティングでは、親の会社を継ぐか継がないかの意思決定をするお手伝いはしていません。自分の本気の覚悟がすべてのスタートにあるからです。スタートに立つかどうかを決めるのは、他の誰でもなく自分自身でなければなりません。他人に委ねられた意思決定は、真の覚悟とは言えませんからね」
反論の余地は微塵もない。この意思決定は自分にとって、新しい人生を歩むかどうかの選択であることには違いなく、それは既に理解していたつもりであるが、その意思決定が本気かどうかを測る必要があると水戸は言っている。
「私どもは本気の人しか応援できません。覚悟ができたとき、またお越しください」
「ありがとうございます。勉強になりました」
頭を下げて席を立とうとしたとき、水戸がいくつかの資料を渡してくれた。
「弊社で運営する『事業承継実践塾』のテキストの一部です。よかったら読んでみてください」