退職後に始めるつもりだった、海辺の暮らし
俊夫さん(仮名・65歳)と妻の恵子さん(仮名・65歳)は、長年、地方への移住を夢見てきました。
俊夫さんが会社員として受け取った退職金は約1,900万円。夫婦の年金は月24万円ほどです。住宅ローンを完済した自宅を売却し、海の近い町で小さな中古住宅を買う計画を立てていました。
「朝は海辺を散歩して、庭で野菜を育てたいな」
「今より生活費も抑えられそうね」
夫婦は移住候補地を何度も訪れ、駅やスーパー、病院までの距離も確認しました。気に入った物件も見つかり、あとは自宅を売り出すだけという段階まで進んでいました。
気がかりだったのは、俊夫さんの母・千代さん(仮名・88歳)の存在です。
千代さんは夫婦の家から車で15分ほどの場所に一人で暮らしていました。要介護認定は受けていませんでしたが、足腰が弱り、重い買い物や通院には俊夫さん夫婦の助けが必要です。
それでも千代さんは、以前から言っていました。
「私は大丈夫よ。あなたたちは好きなところで暮らしなさい」
俊夫さんは、その言葉をそのまま受け取っていました。移住後も月に一度は様子を見に戻り、必要なら宅配や見守りサービスを使えばよいと考えていたのです。
ところが自宅の売却について伝えた夜、千代さんの表情が曇りました。
「本当に遠くへ行くの?」
「新幹線を使えば、半日もかからないよ。何かあればすぐ戻るから」
俊夫さんがそう答えると、千代さんはしばらく黙ったあと、小さな声で言いました。
「あと数年だけ、そばにいてくれない?」
それまで気丈に振る舞っていた母の言葉に、俊夫さんは返事ができませんでした。
数日後、千代さんが自宅で転び、玄関先から動けなくなる出来事がありました。幸い骨折はありませんでしたが、発見したのは近所の人でした。
「私たちが遠くにいたら、駆けつけるまでどれくらいかかるんだろう」
恵子さんの言葉に、俊夫さんも不安を隠せませんでした。
内閣府『令和7年版高齢社会白書』によると、85歳以上では要支援認定を受けている人が14.0%、要介護認定を受けている人が44.5%に上ります。年齢が上がるほど、突然生活上の支援が必要になる可能性は高まります。
俊夫さん夫婦は、自宅の売却手続きをいったん止めました。
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