ギリシャからスペイン、イタリア、ポルトガルにも波及
二〇一〇年、人口わずか一〇〇〇万人の南欧のユーロ加盟国ギリシャに、国の大きな借金が隠されていることがわかり、世界の金融市場を揺るがす深刻な危機に発展しました。ギリシャ政府はウソの財政報告をつくってユーロに参加していましたが、政権交代でこの事実が暴露されてしまいました。
大きな借金は他の南欧諸国、スペイン、イタリア、ポルトガルにもあることがわかり、ウォール街の投機マネーが混乱につけ込んだ大儲けを狙って襲いかかりました。危機はヨーロッパ全体に波及し、国際通貨としての評価を受けていたユーロそのものの存続まで危ぶまれる事態になりました。
一〇年に始まった危機は、後述するさまざまな対応で、一二年秋にいったん治まりますが、一五年に債務の処理をめぐって再び危機が発生します。二度目の危機もどうにか収拾されて今日に至っていますが、前後六年間に及ぶ危機は、二つに分けて考える必要があると思います。もちろんギリシャの大型債務発覚に始まるひとつながりの出来事であるのは確かですが、前半と後半では危機の性質がまったく異なります。
危機を一層深刻にしたと批判を浴びたメルケル独首相
一〇年から一二年にかけての第一次危機では、先ほど書いたように南欧諸国の巨額債務が次々に明らかになり、ウォール街投機マネーの格好の餌食になって国債が暴落、とりわけ債務の大きいギリシャは国の破産を意味するデフォルト寸前の状況に追い込まれました。ユーロ圏諸国は動揺し、体制の立て直しに懸命の取り組みを始めましたが、各国の利害が絡んで作業はなかなか思うように進みません。
ドイツが主導すべき立場にあるわけですが、もともと慎重なタイプのメルケル首相は、一二年秋の総選挙をひかえていることもあり、ギリシャの放漫財政の後始末にどうしてドイツ国民の血税を使う必要があるのかという突き上げを無視することはできませんでした。メルケルは後々、決断の遅れが危機を一層深刻にしたという批判を受けることになります。フランスの雑誌は、当時メルケルに“Madame radine”(ケチンボ・マダム)というあだ名をつけました。