「定年したら二人でゆっくり」…妻が抱いていた老後への期待
和子さん(仮名・73歳)は、78歳の夫・信一さん(仮名)と50年以上連れ添ってきました。
結婚後は専業主婦として家庭を支え、二人の子どもを育て上げました。信一さんは会社員として働き続け、家計を支えてきました。決して裕福ではありませんでしたが、住宅ローンも完済し、子どもたちも独立しています。夫婦の年金収入は月20万円ほどで、そのうち和子さん自身の年金は月12万円程度でした。
若い頃から和子さんには一つの楽しみがありました。
「定年したら二人で旅行に行こう」
「今度は自分たちのために時間を使おう」
忙しい子育てや家事の合間に、そんな話を何度もしていたのです。
ところが、信一さんが退職してから、その期待は少しずつしぼんでいきました。
現役時代は朝早く出勤し、帰宅も遅かったため、夫婦が一緒に過ごす時間は限られていました。しかし退職後は一日中同じ空間にいる生活になります。
最初のうちは和子さんも、「これからは二人でゆっくり過ごせる」と前向きに受け止めていました。
しかし、実際に始まった日々は、彼女が思い描いていた穏やかな老後とはどこかかけ離れていたのです。
信一さんは家事をほとんどしません。食事の時間が少し遅れると不機嫌になり、洗濯物のたたみ方や掃除の仕方にも細かな不満を口にします。和子さんが友人との食事会へ出かけると、「そんなに出歩く必要があるのか」と言われることもありました。
暴力や激しい口論があったわけではありません。ただ、毎日の小さな不満や否定的な言葉が積み重なっていったのです。
和子さんは次第に、自分の希望を口にしなくなりました。
旅行の話をしても「人が多いところは疲れる」の一言で終わる。地域のイベントへ誘っても興味を示さない。映画や美術館へ行きたいと言っても、「そんなものに金を使う必要があるか」と返される。
最初は反論していた和子さんも、やがて諦めるようになりました。
内閣府『令和7年版高齢社会白書』では、高齢期における社会参加や生きがいづくりの重要性が指摘されています。仕事や子育てを終えた後、自分らしい活動や人とのつながりを持つことは、生活満足度にも大きく関係するとされています。
しかし和子さんの生活は、自分のための時間が増えるどころか、夫の機嫌をうかがう時間が増えていきました。
転機となったのは72歳のときです。
高校時代の友人たちとの食事会で、久しぶりに同世代の女性たちとゆっくり話をしました。趣味のサークルに通っている人、旅行を楽しんでいる人、地域活動に参加している人。それぞれが自分の時間を大切にしていました。
帰り道、和子さんはふと考えます。
「私の人生、あと何年残っているんだろう」
平均寿命まで生きたとしても、自由に動ける時間には限りがあります。
その日の夜、自宅へ戻ると、信一さんはいつものようにテレビの前に座っていました。二人の間に会話はありません。
その光景に、和子さんは初めて強い孤独を感じたのです。
