「子どもに迷惑をかけずに済む」…安心を求めて選んだ住まい
信夫さん(仮名・75歳)と妻の玲子さん(仮名・74歳)は、長年暮らした自宅を手放し、有料老人ホームへの入居を決めました。信夫さんは大手企業を定年まで勤め上げ、夫婦の年金は月40万円ほど。貯蓄も約6,000万円あり、経済的には比較的余裕のある老後でした。
入居を考え始めたきっかけは、玲子さんの転倒でした。幸い骨折には至りませんでしたが、信夫さんは「この先、二人だけで暮らすのは不安だ」と感じるようになります。長女からも「元気なうちに見学だけでもしてみたら」と勧められ、夫婦はいくつかの施設を回りました。
最終的に選んだのは、看護師が日中常駐し、食事も提供される施設でした。共用部はホテルのように整えられ、スタッフの説明も丁寧でした。月額費用は安くありませんでしたが、年金と貯蓄を考えれば十分に支払える範囲です。
「お金で安心を買えるなら、それも悪くないと思ったんです。子どもに迷惑をかけずに済むなら、早めに移ったほうがいいだろうと」
信夫さんはそう振り返ります。玲子さんも当初は賛成していました。食事の支度や掃除の負担が軽くなり、何かあったときに職員を呼べる環境は心強く感じられたからです。
厚生労働省『介護サービス施設・事業所調査』でも、高齢者向けの施設や居住系サービスは高齢期の生活を支える重要な受け皿として位置づけられています。また、内閣府『令和7年版高齢社会白書』では、高齢化の進展により、住まいや介護をめぐる備えの重要性が示されています。夫婦の判断は、決して特別なものではありませんでした。
ところが、入居からしばらくすると、玲子さんの表情が曇るようになります。朝食、昼食、夕食の時間は決まっており、外出時にも行き先や帰宅予定を伝える必要があります。安全確認のためには当然の対応でしたが、玲子さんには「生活を管理されている」ように感じられました。
さらに、食堂での人間関係にも気を使いました。毎日同じ席の近くで顔を合わせる入居者たちとの会話は、最初こそ楽しかったものの、次第に疲れを感じるようになりました。自宅であれば気分に合わせて一人で過ごせますが、施設では誰かの目があるように感じてしまったのです。
「安心なのは分かるんです。でもここにいると、自分が急に年を取ったような気持ちになって、気が滅入るんです」
