一人息子の結婚
斉藤和夫さん(仮名/72歳)は妻の久美子さん、一人息子の翔太さん(32歳)と一緒に都営団地で暮らしていました。翔太さんは、和夫さんが40歳のときに生まれた子です。結婚が遅かった夫婦にとって待望の子どもでした。
晩婚ゆえの悩みは、翔太さんの大学卒業が和夫さんの定年退職の間際と重なったことです。教育費を払い終えたとき、老後のための大きな貯蓄を作ることはできていませんでした。
現在、夫婦の収入は月21万円ほどの年金のみ。決して余裕はありませんが、「翔太が一緒に住んでくれているから大丈夫」という安心感がありました。
食費や光熱費を少し入れてくれるだけでも助かる。将来的には、息子が結婚してもこのまま同居して、自分たちの面倒をみてくれるだろう――。そんな期待を、夫婦はごく自然な「親の権利」として抱くようになっていたのです。
ある日、翔太さんが「紹介したい人がいる」といって、婚約者の女性を連れてきました。礼儀正しく穏やかな女性で、久美子さんは「やっと安心できる」と涙ぐみ、和夫さんも上機嫌でした。その後、両家の顔合わせも順調に進みます。
しかし、和やかな空気のなかで、和夫さんは何気なくこう尋ねました。
「ところで、いつからここで一緒に暮らせるんだ?」
すると翔太さんは、少し間を置いてこう答えたのです。
「結婚後は、二人で賃貸を借りて暮らすつもりだよ」
その一言で、場の空気は凍り付きました。
突きつけられた「親子の縁」の値段
「そんな話は聞いてないぞ!」
思わず和夫さんは大声を上げてしまいました。周囲が固まるなか、翔太さんは冷静に「この場ではなんだから、その話はあとでちゃんとしよう」とその場を収めましたが、数日後の話し合いでも、お互いの話はまったく噛み合いません。
和夫さん夫妻は、「自分たちは翔太のためにずっと頑張ってきた」「親の面倒をみるのは当然ではないか」と主張します。対する翔太さんは、長年感じていた息苦しさがあったようです。「俺には俺の人生があるんだよ」と吐きだします。
焦った和夫さんは、つい本音を口にしてしまいました。
「年金だけじゃ苦しいんだ。少しは支援してくれないか」
その瞬間、翔太さんの表情が変わりました。しばらく沈黙したあと、静かな声でこういったのです。
「……わかったよ。団地の家賃分くらい払えば十分だよね」そして、続けました。「その代わり、親子の縁を切りますので」。
あまりにも冷たい言葉でした。夫婦は呆然と座り込んでしまいます。
「俺たちは……子育てに失敗したのか」
静まり返った部屋のなかで、夫婦は自分たちの過ちに打ちひしがれ、心がえぐられる思いがしました。


