端正で淡い景色、サラッとした空気・・・
二〇一一年の三・一一以後ほど日本人が多くのことを考えた時期は前大戦以来なかったろう。大災害が起きたのに、基盤であるべき国家財政は先進国の中で最悪であり、国民生活は地獄のようなデフレスパイラルに落ち込み不安に満ちていた。
けれども、私は旅に出た。JTBのツアーでフランス・パリ周辺を回るというプランに乗った。
パリの旧市内はもう五回くらい観光しているため、フリーでもツアーでも何処へ放り出されても迷わないくらいだが、周辺部にも中々魅力的なところが多く、観光地のほとんどが世界遺産とは豪勢だ。
二〇一一年七月十五日十時三十四分、フィンランド航空便で中部空港を出発した。添乗員がベテランで日仏二カ国語がペラペラに話せて頼りがいがある。フランス語の語感は私のウロ覚えでは「ゴトゴトジュ、ジュトジュデニジュ」(五と五と十、十と十で二十)という調子だと彼は言う。ちがっていたらご無礼。
つつがなく七時間の時差、十八時十二分にパリ・ドゴール空港に十四年ぶりの着陸である。懐かしきフランスの端正で淡い景色、フランスの香り、サラッとした空気。
ミニバスに乗ってパリ市街の方に向かうが、昔と相当にちがうのは田園と牧場が姿を消し、高層マンションとオフィスビルの林立になったことである。これは条例改正により、旧市街は従来通り景観保存のため六階ぐらいに端麗に並ぶが、環状道路の外側は高さ制限なしということになったせいである。
都心部に入りバカンス客の出入りで賑わっているパリの南玄関リヨン駅西隣の洒落たホテル、メルキュール・パリ・ガール・ド・リヨンへ着いた。十九時二十分だが外は明るい。ここは北緯五〇度だからなのであろう。
ルーブル宮前で治安に不安を覚える場面も
次に、初回のパリ旅行のエピソードだが西欧は日本と決定的にちがうと思った事件をのべる。
生まれて初めて欧州に着いた一九八二年九月、ルーブル宮前の人気は少ないが夢のような庭園でカメラのレンズ交換を行っていたら宮殿の方から愛らしい子供たちが五人くらい走ってきて「ハバネラ」のような唄をランランと唄いながら我々夫婦の周りをグルッと取り巻いた。
衣裳からロマ人の子と気がついたら最年少の子供がとびかかって来て私の内ポケットに手をつっこんだので身をひいた。安全ピンで守られたパスポートが入ったポケットは無事であったが、向こうは空手の構え、こちらはウルトラマンのポーズだ。
妻がハンドバッグで叩いたらサッと皆逃げ去った。子供にしてはやることが悪どい。この旅の厳しさを予想した。その後の旅でも参考になった。
十六日朝、昨秋のような天気になり、肌寒い。最近の欧州によくある異常気象はいつまで続くのか。雨が時々パラつく中を観光バスが出発した。
セーヌ川を渡ってシテ島へ。シャトレ広場に着いた。シテは英語のCITYの原語になったが、広場はパリのゼロキロメートル地点で、まさにここはイル・ド・フランス地域圏の、そしてフランス共和国の中心点で、地面に標識がある。
だいぶ前、私の長男が大学卒業旅行で渡欧したが、帰国してからの感想は、全部キリスト教で圧倒されるね、というものだった。やたら大きい宗教建築が多いことに驚いたにちがいない。現に目の前にノートルダム大聖堂が威圧的にそそり立っている。
そこで今回の紀行文は非宗教施設をまず説明し、後からキリスト教論と共に大聖堂や修道院などの遺産を案内しようと思う。
ここで現地ガイドのカミーユさんが登場する。スラッとしたブルネットの美人だ。日仏のミックスで日本語はペラペラ。それもそのはずで、小中学校を神戸で過ごしたという。ガイドとしては最適な女性である。えらそうに言うわけではないが、私はフランス人女性に関心が強い。そのきっかけは次のエピソードから得られた。