「がんばらない」ことに長けたインド人?
中世日本の無常観は平家物語のような悲しみの短調だが、インドの無常観は世界的な陽気な長調である。現代日本人の中にも七割以上の仏教愛好者がいることは、輪廻的な生まれ変わり観が原因かもしれない。仏教の中心思想の一つ「縁起論」は紙数がないので省略させてもらう。
もっと注目すべきは、釈迦はもともと強健だった肉体を苦行で衰弱させたが、酷暑のインドで八十歳(今の日本では百歳か)の長寿を保ったことだ。ここに「がんばらない」の効用を見る。西洋医学ではそこが理解できず、仏教は医学だと見る者も多い。
古代インドから独自の医学もあり東洋の哲学宗教は不可解であろう。まだ宗教には語ることも多いが、「インド人は宗教を大事にし、日本人は愛国心を大事にする(中村元博士)」ともいうから、きりがない。
以上、釈尊の生涯を中心にした教義を「上座部仏教」(俗に小乗仏教ともいう)と呼び、インドから南方のスリランカ、ミャンマー、タイ、ベトナムへ広まったが、その内容が、出家した僧侶中心で、あまりに厳格であるので、一世紀頃に、すべての修行する人々の「菩薩」行と「悉皆仏性」(すべての生けるものは仏さまになる可能性)とか、教えの方法として「方便」を認めたりする「大乗仏教」が南インド出身の竜樹らの努力で成立し、これは北方のチベットや中国に広まり、現在の日本の仏教も概ね大乗仏教である。
例えば、我国の鎌倉時代に生まれた三大宗派においては、古い歴史をもつ阿弥陀信仰の浄土経も、竜樹により、大乗に採り入れられ、念仏と他力をキーワードにして、中国から日本に伝わった。
また座禅と瞑想の修行を中心に釈尊の境地に近づこうという禅宗も日本に伝わり、美術や茶道などの行いで武士に擁護され、武士道に影響した。また大乗の中心経典の「法華経」は、日本では日蓮宗の中心思想となった。
仏教の教義は翻訳の都合などで、複雑であるが、最近日本では中村元博士の学派により近代的教義にまとめられて広く普及している。
経済格差、汚職など問題点も多いインドだが…
現代インドへ話を移す。欧米側から見て、インドの近代化の足を引っ張っている要因は多い。
政党の多党化と、それによる連合政権とその不安定性、中央政権と州政権の対立、都市と農村の格差、汚職の蔓延、そして一番厄介なのがヒンドゥー教対イスラム教に代表される宗教対立による特にイスラムの暴動とテロである。
イスラムは一〇世紀頃からインド亜大陸へ進入し、非東洋的な一神教的暴力性で、例えば多くの仏教徒は仏像という偶像を崇拝しているという理由で国外へ追放した。教義通り仏教徒は非暴力、無抵抗だった。
しかし現代も欧米の批判ほど悪い治安でない。現在インド国民はイスラムでさえ温和で、争いを好まぬ。夏は四五度にもなるから原則がんばらない。イランの核の脅迫で、やむをえず核兵器を持っている。インド人自身が痛切に願っていることは、教育の普及である。
ちなみに識字率は六五パーセントとアジアで最低であり、このことがまず貧富の差を広げ、人口激増の原因となっている。もう一つはインフラストラクチャー、とりあえず道路の建設設備だ。
しかし、インド人は零を発見し西欧文化に大影響を及ぼし、数学と論理には強いのでIT産業で世界に人材を送っている。
タゴールの「七つの社会的罪」を記す。いずれもヒンドゥーの文法特有の否定形の碑文だ。理念なき政治、労働なき富、良心なき快楽、人格なき学識、道徳なき商業、人間性なき科学、献身なき信仰という立派な批判文である。
インド人が対外軍事侵略をしないのは、同じ資源に乏しい日本と比べて宗教民族だからであろう。農作物は放っておいても三期作で食料の不安はない。近年二十五万円の超エコ乗用車を開発して、やればできるとインド人もビックリしているだろう。がんばらなくてもあきらめないで進んでいくことであろう。
ところで私の信仰心といえば頼りないもので、爽やかな朝の目覚めの時に感じるという程度で、まだ信仰の入口と言えるだろう。今、アジアは春。日本も回心の春だ。万葉集の御歌を記し、締めとしよう。
石走る 垂水の上の さわらびの
萌え出づる春に なりにけるかも
(二〇一二年(平成二十四年)一月記)