几帳面な父が遺した「公正証書遺言」で“完璧”と思われていた相続
都内のメーカーに勤務する敏之さん(仮名・50歳)は、半年前に父・武夫さん(享年82歳)を亡くしました。父は生前、几帳面な性格で、退職金と貯蓄を合わせた5,000万円の金融資産と、郊外のニュータウンにある評価額3,000万円の自宅、計8,000万円の資産を築いていました。
「敏之、心配するな。俺に万が一のことがあっても、母さんが路頭に迷わないように手続きはしてある」
武夫さんは生前、そう胸を張っていました。その言葉通り、死後に見つかったのは、公証役場で作成された不備のない公正証書遺言でした。そこには簡潔に、しかし力強くこう記されていました。
『全財産を、妻・松子に相続させる。遺言執行者は長男・敏之を指定する』
「さすが親父だ。これで母さんの生活費も施設費用も心配ない」当初、敏之さんは安堵しました。
母の松子さん(仮名・78歳)は3年前から認知症を患っており、最近では敏之さんの顔もときどきわからない状態でしたが、この遺言のおかげで遺産分割協議書への母の署名や印鑑証明書は不要となり、スムーズに名義変更などの手続きが進んだからです。
しかし、その安堵は銀行の窓口で絶望に変わりました。
指一本触れられない資産に変わって絶望
武夫さんの遺言に基づいて、敏之さんが武夫さんの預金を「母の口座」に移し終えた後のことです。松子さんが入所する予定の有料老人ホームの一時金として、1,000万円を送金しようとしたそのとき。
「申し訳ありません。口座名義人である松子様ご本人の意思確認ができませんので、高額な出金や振り込みのお手続きはいたしかねます」
行員は申し訳なさそうに、しかし毅然と告げました。
預金が松子さん名義になった瞬間、それは「武夫さんの遺産」から「認知症の松子さんの財産」に。判断能力のない松子さん自身も、そして代理権を持たない敏之さんも、指一本触れられない「凍結資産」となってしまったのです。
「じゃあ、誰も住まなくなる実家を売って、そのお金を介護費に充てれば……」
敏之さんは不動産業者にも連絡しましたが、回答は厳しいものでした。
「所有者であるお母様の判断能力がない以上、売買契約は結べません。成年後見人をつける必要があります」
敏之さんは頭を抱えました。武夫さんがよかれと思って「全財産」を松子さんに渡した結果、そのすべてが凍結され、皮肉なことに介護費用すら捻出できない状況に陥ってしまったのです。
