「俺の死後、お前に苦労はかけんよ」自信満々だった父
「うちは大丈夫。父は元銀行員だし、公正証書遺言も作ってある。相続の心配はないよ」
洋介さん(仮名・58歳)の父、修造さん(仮名・82歳)は、地方銀行の支店長まで務めた人物でした。数字に強く、マネーリテラシーも高い自負があった修造さんは、3年前に妻(洋介さんの母)を亡くした際、すぐにすべての資産整理を行いました。
「洋介、俺の財産はすべて整理してある。この『公正証書遺言』を見ろ。俺に万一のことがあったら、自宅も預金もすべてお前に相続させる手続きになっている。俺のことでお前に苦労はかけんよ」
重厚な表紙の公正証書を見せられ、洋介さんは「さすが父さん、完璧だ」と感心しました。しかし、日々仕事に追われる洋介さんは、父の言葉を話半分に聞き流していました。「万一のこと」を「将来のこと全て」と漠然と捉え、「これで親の金銭管理で悩まなくて済む」と都合よく解釈してしまったのです。
「まさかそんな勘違いを」と思われるでしょうか。しかし、実際の相談現場では、立派な遺言書があるからこそ、生前の備えまで万全だと思い込んでしまうご家族が、驚くほど多いのが現実です。
そして、運命は皮肉でした。備えていた「死」よりも先に、想定外の「老い」が現実となってしまったのです。修造さんは亡くなる前に、認知症を発症してしまいました。
銀行窓口での“門前払い”
修造さんの認知症は急速に進行し、徘徊の症状も出始めました。そのため、洋介さんは急遽、修造さんを月額25万円の有料老人ホームに入居してもらうことを決意しました。入居一時金と当面の費用として、まとまったお金が必要です。
「父さんの口座には3,000万円ある。ここから払えばいい」
修造さんの通帳と印鑑、そして「印籠」である公正証書遺言をカバンに入れ、銀行の窓口へ向かいました。事情を話して、行員に払い戻しを依頼した洋介さん。しかし、予想外の言葉が返ってきたのです。
「大変申し上げにくいのですが……修造様の口座からお金を下ろすことはできません」
「え? なぜですか? 私は長男ですし、ここに公正証書遺言もあります。全財産を私に譲ると書いてあるでしょう」
洋介さんは声を荒らげそうになるのを抑え、遺言書を突き出しました。行員は困惑しつつもこう告げました。
「遺言書の効力が発生するのは、お父様が『亡くなられたあと』でございます。お父様はご存命ですので、この遺言書を使って預金を引き出すことはできません。」
「……はい?」
洋介さんは自分が勘違いをしていたことを認識して、背中に冷たい汗が伝いました。
「で、では、どうすれば……お金が必要なんです!」
「修造様ご本人の意思確認ができない以上、ご家族であっても引き出しはできません。『成年後見人』をつけていただき、後見人経由でお手続きいただくしかありません」
その瞬間、洋介さんは悟りました。修造さんが誇らしげに見せてきた「完璧な遺言書」は、「死ぬまでの一番お金がかかる期間」に対しては、ただの紙切れだったのです。
