「通帳はあるのに、下ろせない…」真面目な父を襲った悲劇
「父の口座には十分な老後資金があるんです。通帳も印鑑も手元にある。それなのに、1円も引き出せないなんて……。これじゃあ、なんのために父は一生懸命貯めてきたんでしょうか」
谷崎健二さん(仮名・54歳)は悔しそうに唇を噛み締めました。
健二さんの父、昭三さん(仮名・82歳)は元地方公務員。几帳面な性格で、定年後も家計簿を欠かさずつけ、コツコツと貯めた預貯金は4,500万円にのぼりました。「自分の老後の面倒は自分で見る。子供には迷惑をかけない」が口癖で、健二さんにとっても頼りがいのある父親でした。
しかし、その「しっかり者」の性格が、皮肉にも事態を複雑にすることになります。
「お金の話」はタブーだった
昭三さんは金銭に関して秘密主義でした。健二さんが正月に帰省した際、「今後の資産管理はどうする?」と水を向けても、「俺はまだボケてない! 親の財布を覗くなんて意地汚い真似はするな」と一喝されるのが常でした。健二さんも、父のプライドを傷つけたくない一心で、それ以上踏み込むのを避けてきたのです。
事態が急変したのは、昨年の冬。昭三さんが自宅で転倒し、大腿骨を骨折して入院したことがきっかけでした。入院による環境の変化と痛みからか、昭三さんの認知機能は急速に低下。その後、医師から「認知症」と診断されました。見舞いに行っても、健二さんの顔を見て「どちら様ですか?」と尋ねる日も増えてきました。
病室での叫びと、銀行窓口での現実
退院後は施設への入居が必要となり、入居一時金と当面の費用で約500万円が必要でした。健二さんは父の書斎から通帳とキャッシュカードを探し出しましたが、肝心の暗証番号がわかりません。慌てて病院へ走り、ベッドの父に問いかけました。
「父さん、施設に入るお金が必要なんだ。銀行の暗証番号、教えてくれ!」
しかし、昭三さんは虚空を見つめ、「番号……? バスはまだ来ないのか……」と繰り返すばかり。「父さん、頼むよ! 暗証番号は!?」健二さんの必死の叫びも届かず、会話は成立しませんでした。
万策尽きた健二さんは、通帳と届出印を持って銀行の窓口へ向かいます。「事情を話せば、家族だしなんとかなるだろう」という一縷の望みを抱いてのことでした。
しかし、窓口での対応はドライなものでした。
「暗証番号はわからないんです。でも、父は入院中でここには来られません。息子である私が通帳も印鑑も持ってきているんですよ」
「申し訳ございません。お引き出しには、ご本人様の意思確認、または暗証番号の照合が必要です。規則ですので、ご本人様と面談できない場合はお取り扱いできません」
食い下がる健二さんは、焦りのあまり、いってはいけない事実を告げてしまいます。
「面談なんて無理です! 父は認知症でもう私のことすらわからない状態なんですよ!」
その言葉を聞いた行員の表情が変わりました。
「……左様でございましたか。ご事情はお察ししますが、ご本人様に意思能力がないとなると、銀行としてはご預金を保護する義務がございます。成年後見人などの公的な代理人を立てていただかない限り、どなたであっても払い出しには応じられません」
厳密には「即座に凍結」というわけではありませんが、暗証番号を知らず、本人確認もできない健二さんにとって、その口座は事実上「凍結」されたも同然でした。 4,500万円もの資産がありながら、それを介護に使えない。健二さんは自身の貯蓄を取り崩し、足りない分は教育ローンを抱える自身の家計をさらに切り詰めて、父の施設費用を立て替える羽目になったのです。
