生き方の指針となった祖母の言葉
受験勉強もろくにしなかった(正確にいうと、する余裕がなかった)私は、学校での成績も低空飛行を続け、とても普通の高校に進学できるレベルではありませんでした。
さすがに両親も「高校くらいには行かせておかないと」と心配したようです。どんなに底辺の成績でも受け入れてくれる私立高校に入学させてもらいました。
その高校は、当時住んでいた祖母の家から自転車で30分ほどの距離にあるのですが、入学後の1年間は、併設する寮に入れさせられました。
母は相変わらず体調を崩していました。そこに追い打ちをかけるように、単身赴任中の父の運転する車がトラックと正面衝突する事故を起こしてしまいました。幸い一命はとりとめたものの、長期入院を余儀なくされ、会社の出世コースから外れてしまいました。真面目で仕事熱心な父にとって大きな挫折だったと思います。
母と祖母の仲も険悪になり、結局私たち一家は祖母の家を出ていくことになりました。新しい家での父はすさみきっていて、私への風当たりもこれまで以上に強くなりました。そんな父の暴力から逃れることのできる寮生活は、私にとって願ったり叶ったりでした。
ただし、高校側としては1年間限定という特別な条件だったようで、2年生に進級すると同時に退寮し、家に戻されてしまいました。この頃には父親もリハビリしながら仕事に復帰していましたが、両親ともに体調が悪く、家族間の口論が増え、家庭内は息苦しい雰囲気に包まれていました。
また狭いマンションで父親と顔を合わせないように生活することに嫌気がさした私は、逃れるようにもともと住んでいた祖母の家に戻りました。そんな私を、祖母は何も言わずに迎え入れてくれました。
住まいは確保したものの、日々の生活費まで祖母に頼るわけにはいきません。そこで、友達の誘いで始めたのが九州一の繁華街・天神にあるラーメン屋台でのアルバイトです。
学校が終わるとそのまま屋台に直行し、夕方から夜通し働きます。明け方になったらそのまま原付バイクで学校に行き、教室で睡眠をとり、夕方からまたアルバイト。それが基本的なルーティーンで、休みの日は仲間と夜通し遊ぶという一般的な高校生活のレールからは完全にはみ出した生活を送っていました。
そんな毎日を過ごし、家にもろくに帰らない私を、祖母はただ黙って見守ってくれ、たまに夜遅く帰ってきたときにはそっと食事を出してくれました。
