「無敵の人」はなぜ生まれるのか?私たちがあえて見ないようにしている「助けたい姿をしていない弱者」という存在

「無敵の人」はなぜ生まれるのか?私たちがあえて見ないようにしている「助けたい姿をしていない弱者」という存在
(※写真はイメージです/PIXTA)

更生保護法に基づいて、犯罪者を保護・観察して社会復帰の手助けを無給で行う「保護司」。2024年、保護観察中の人物が自らを担当する保護司を殺害するという事件が起こり、世間を震撼させました。本記事では、御田寺圭氏の著書『フォールン・ブリッジ』(徳間書店)より一部抜粋・再編集し、「助けたい姿をしていない弱者」について考えます。

「ほらな、助けないほうが正解だったんだよ」

……だが、世の中のだれもがあえて助けようとは思わない、むしろ自分から遠ざけようとする「助けたくない姿をしている弱者」にあえて手を差し伸べようとしたまさにその人が、その相手から恨みを買って傷つけられたり、最悪の場合は命を奪われたりする事件がしばしば起こってしまう。

 

それは今回のケースだけではない。最近だけでもいくつかそうした事件はあった。2022年の「埼玉県ふじみ野市立てこもり事件」(*2)、2021年の「大阪北新地雑居ビル放火殺人事件」(*3)、2019年の「渋谷区児童養護施設長刺殺事件」(*4)などがその例だ。かれらはみな、就いている職業は違えども、世間から「助けたい」と思ってもらえないタイプの弱者に寄り添う営みのさなか、まさに寄り添っていたその相手に殺された。

 

世間はこうした凄惨な事件に胸を痛めつつも、あらためて納得する。「ほらな、やっぱり、あんな奴らを助けようとするのがそもそもの間違いだったんだ」──と。

 

私たち一人ひとりにとっては「助けたい姿をしていない弱者」を遠ざけて疎外したからといって、それでなんのリスクもない。リスクもないどころか、下手に関わり合いを持ってしまう方がリスクだと認識させられる事件や事故ばかりが伝えられているのだから、むしろ合理的な行動だとすらいえる。だれだって自分の生活、自分の人生が大切なのだから。

 

世の中のだれからも拒絶された人は、社会的にも経済的にも人間関係的にも孤立していく。そうして窮した果てに、失うものを持たず、ただ復讐心だけをたぎらせた「無敵の人」になろうとも、そうなったところで私たちがその人から実害を受ける可能性はきわめて低い。世間から疎外され拒絶されつくした人の復讐のターゲットになることより、交通事故に遭う方がよほど私たちにとって確率が高い。

 

「助けたい姿をしていない弱者」を遠ざけたくなるのは自然な感情だろう。自分たちにとってはお近づきになる方がリスクやデメリットが大きいのだから、だれだってそうする。悪意や害意ではない。人間の良心、あるいは素朴な人情というものだ。

 

けれども、人びとのそういう「小さな拒絶」が積もり積もって大きな歪(ひず)みになり、あえて拒絶せず向き合うことを選んだ人に大きなリスクやデメリットを背負わせていることも事実だ。私たちは、そのことを忘れてはならないだろう。

 

私たちは、自分たちの平和で安全で快適で清潔で穏やかな暮らしを守ろうとするとき、必ずだれかを疎外している。疎外された人は、だからといって世界から消えてなくなるわけではない。

 

私たちの視界に入らなくなっただけで、それでもどこかで生きている。苦しみながら。

 

私たちが疎外した人すべてが、だからといって世間や他者に恨みを募らせ、自暴自棄になって凶行に奔(はし)る「無敵の人」になるわけではないのは言うまでもない。

 

しかしながら「わかりやすい弱者」には明確な同情を示して自らの思慮深さや慈悲深さをアピールしつつ、「助けたい姿をしていない弱者」には掌を返して冷酷に疎外する私たちの合理的な態度は、この世のどこかに「復讐者」を生み出す営みに加担していることは否定しようもない。

 

一人ひとりが「復讐者」の誕生に加担している度合いは目に見えないほど小さいかもしれないが、それでもだ。

次ページ小さな「疎外」と小さな「包摂」
フォールン・ブリッジ

フォールン・ブリッジ

御田寺 圭

徳間書店

情報技術の発達とともに、だれもが手軽に 「つながり」を得られる時代になった。 スマートフォンの画面を覗いてみれば、 一人ひとりがいまなにをしていて、 なにを考えているのかが、 いままで以上に見えるようになった…

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