40年以上、断絶状態が続いている長男
相続のもたらす「悲劇」は、被相続人の財産をめぐる問題だけに限りません。
被相続人と相続人の間にあった感情の葛藤、例えば親と子の間にあった「遺恨」が、親の死によって解消されないまま残り続けてしまうことも、その一つに数えることができます。
弁護士事務所から紹介を受けた相談者に、40年以上、長男と断絶状態にあった方がいました。そのきっかけとなったのは、長男がある女性との結婚の意思を親に伝えたことでした。親としては、別の結婚相手を考えていたので反対したところ、怒った長男は家を飛び出して、揺らぐことなく自らの意思と女性への愛を貫きました。
しかし長男と親にとって不幸だったのは、長男が結婚した相手が3年後に病に倒れ亡くなってしまったことでした。長男は、親が結婚に反対したことと愛した女性の早すぎる死を、恨みを抱きながら心の奥底で強く結び付けてしまったのでしょう。以後、親と実家との一切の交渉を絶ってしまったのです。
結局、父親は長男と和解する機会を得ないまま、亡くなりました。その葬式の席にも長男は姿を現しませんでした。また、その遺産分割をめぐる協議が母親と次男や長女らとの間で行われましたが、そこにも参加しないという意向を長男は示しました。
「父親の遺産はいらない。協議がまとまったら必要な書類には機械的にハンコを押す」というメッセージが伝えられてきたので、遺産相続はもめごともなく、すんなりと終わったのですが、このケースで何よりも問題となるのは、いうまでもなく亡くなった親の気持ちでしょう。
父親は長男に何を伝えたかったのか・・・
この方の父親は亡くなる前に、私に遺言書を残すことについて相談していました。その際に「長男とは一度話がしたい。しかし、その機会が持てない……」という心のうちを私に漏らしてもいました。恐らく、遺言書を通じて長男に対して自分の率直な気持ちを伝えたかったのでしょう。
それは、「結婚に反対したことを後悔している」という謝罪の思いだったのかもしれませんし、あるいは「自分のことを憎んでいるのなら許してくれなくても構わない。ただ、母親とは和解してもらえないだろうか」というメッセージだったのかもしれません。
いずれにせよ、父親が伝えようとした思いを長男に伝える機会は、文字通り永遠に失われてしまいました。父親は結局、遺言書を残さないまま亡くなってしまったからです。私が相談を受けてから1週間後に、思いも寄らぬ事故に遭い、この世を去ってしまったのです。
恐らく、その人の頭の中では長男の顔は、最後に会った40年前と全く変わっていなかったことでしょう。子供の時に映画やテレビで目にした俳優がいつまでも若いままのイメージであり続けるのと同じように、昔の息子の姿を思い描きながら、父親の胸には「今はどんな顔になっているのだろう」「立派になっただろうな」などと様々な思いが去来していたはずです。もしかしたら、何らかの奇跡が起きて息子と和解する、そんな光景さえ想像していたかもしれません。
しかし、自らの突然の死によって、和解はおろか、遺言書で息子に思いを伝えることすらできなくなってしまったのです。
人間は死の瞬間、それまでの人生が走馬燈のようによみがえってくるといいますが、そのとき、脳裏に浮かんだ息子の顔は、最後に目にしたその若い頃の表情のままだったのでしょうか。その顔を目にしながら、遺言書をつくれなかったこと、思いを伝えられなかったことを、父親はどのように感じていたのでしょうか。
せめて、遺言書を残すことができていたら、この父親が死の瞬間に感じていた思いは違っていたのではないかと、私は考えずにはいられません。