創造性の発揮に必要な「ゆとり」を大切にする
現在の先進国では、危険を伴う重労働や、気分が滅入るような単純作業のかなりの部分を、機械やコンピュータが肩代わりするようになった。したがって、身体のみを酷使するような仕事や、単純なルーティンワークは減少しつつある。
同時に、これまでは一部の能力ある人だけのものだった、創造性を求められる仕事、継続的な知識の蓄積や技能の習得が必須となる仕事が増えてきている。逆の言い方をするなら、単純労働で、生活を維持できるだけの収入が得られる時代は、終わりつつある。「つらい、大変だ」と思いながら、与えられた仕事に追われるだけでは生きていけない。
今や、それぞれが創造性を発揮し、知識や技能の習得に努めることで、様々なビジネスの可能性が広がり、また、ビジネスとは別のコミュニティの形成が促進される。「働きの場」での競争は焦りを生む。創造性の発揮にはゆとりが必要だ。それこそが「共生社会」の発展の源である。競争をベースにしたアメリカ型成果主義とは無縁の「働きの場」の構築が、生きがいや自己実現に結びつく働きの社会の実現を可能にする。ラインフェルトが言いたかったことは、こういったことではないのか。
だがそのためには、政府、企業、国民それぞれが意識を変えなければならないだろう。
もっとも、スウェーデンにはすでに、それを実現するだけのインフラは整っている。共生社会に不可欠な、政府、政治家と国民の間での信頼関係、企業と国民の間での信頼関係、国民と国民の間の信頼関係は、すでに存在している。そして、教育制度、社会保障制度、福祉制度など、学びの場や技能習得の場は、幾重にも開かれている。
グローバル化が進む中、当然スウェーデンも、自国を始め、EU、世界各国の間で重層的に共生の関係を構築していかなければならない。そのような構築こそが、競争を軸とするアメリカ型グローバリズムに対抗する、共生を軸とした「スウェーデン型グローバリズム」の誕生となる。そのキーワードが、ラインフェルトが提唱する「働きの場の改革」なのである。
スウェーデンの基盤にある「政府と国民の強い信頼関係」
ひるがえって、日本はどうであろうか。
日本では、社会保障や福祉の在り方を考える場合、よくスウェーデンの制度を引き合いに出し、また、実際に取り入れようと試みる動きもある。しかし、アメリカ型の「競争社会」を希求する日本では、スウェーデンと同様の制度は実現できないだろう。なぜなら、スウェーデンの社会保障、福祉は、お互いの信頼関係がきちんと築かれている中でのみ、展開し得る制度だからである。日本では、政府、政治家と国民の間での信頼関係、企業と国民の間での信頼関係、国民と国民の間の信頼関係が、スウェーデン並に構築されているとはとても思えない。
公的年金制度を考えてみてほしい。消えた年金問題は、政府と国民の信頼関係の欠如の現れだ。少なくとも、政府は国民に対して誠実ではない。もちろん、真剣に国民の老後の生活を考えている政治家や官僚がいるかもしれない。しかし、それが具体的な形として国民には見えないのだ。政府と国民の信頼関係がないところに、政府と国民の強い信頼関係のあるスウェーデンの福祉政策をまねたところで、空回りするばかりだろう。
日本は、アメリカ型の「競争社会」を求めたことによる企業の疲弊ぶりや、多くの国民が抱える将来への不安感に目を向けるべきではないだろうか。日本が真にスウェーデン型の社会保障、福祉を取り入れようとするなら、日本もスウェーデンのような共生社会を目指さなければならない。日本はもともと、共生社会の国だったのだ。昔に戻れとは言わないが、再び「日本型共生社会」の在り方を、模索すべきではないだろうか。少なくとも、スウェーデンの福祉の根底にある共生社会の在り方を参考に、「日本型の共生社会」を模索することだ。そして、そのひとつが「働きの現場」の改革なのだ。