倒産危機を乗り越えたターニングポイント
私も、人生で二度、ここが限界点だというところまで仕事に没頭した過去があります。
一度目は23歳のときです。私は大学在学中から個人事業主として働いてきました。今風に言えばフリーランスです。
当時は放送作家として会社勤めをすることなく、テレビ局やラジオ局に出入りして、テレビディレクターと打ち合わせしながら、朝のニュース番組の原稿を作ったり、バラエティ番組のアイデアを出すのに明け暮れていました。
今の経営者としての礎となったのが、このときに得た経験や人脈です。そして、このときほど、私の人生で一番働いた時期はありませんでした。
家に帰れるのは月に二、三度ほど。ほとんどを薄暗い編集室か、テレビ局のスタジオの出入り口に備え付けられた長椅子をベッド代わりにして寝ていました。
当時、東京麹町(こうじまち)にあった日本テレビには、人気番組の「THE 夜もヒッパレ」「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」などを収録する巨大なスタジオがありました。出入り口には長椅子が置かれ、そこが私の一番のお気に入りでした。芸能人やその関係者も使うため、ふかふかの材質で気持ちがよいのです。
そこで朝を迎えて、再び現場に戻る。そんな仕事を、20代の頃は続けてきたわけです。
そして、二度目は、27歳のときに、親友と二人で会社を立ち上げたときです。
当時は、本当にゼロからの始まりでした。何もない5畳のワンルームオフィスからのスタートです。
そこに近くのホームセンターで買ってきた、1つ4,000円のデスクを置き、金づちで本棚を組み立てる。まさにドラマのワンシーンのように、全部手作りでした。
それでも、完成した狭いオフィスを見て、期待に胸が高鳴ったのを覚えています。しかし、そこからが人生最大の苦労の始まりでした。
起業仲間が転職サイトを見ていた
27歳の若手経営者と言えば、聞こえだけはいいです。
しかし、人脈がほとんどないので、自分たちでサービスを作り、自分たちで営業して、自分たちでお金にしなければなりません。
当時始めたのは、テレビの放送作家の経験を活かしたメディアプロモーション事業でした。
しかし、27歳の若造の話をまともに聞いてくれる企業の担当者はいません。3か月近くほぼ無給で働き、貯金残高もみるみる減っていきました。加えて、さらなるショックが追い打ちをかけます。
成果のない営業からクタクタになり帰ってくると、一緒に会社を立ち上げた友人が、転職サイトを見ていたのです。扉を開けた私と目が合い、一瞬、ぎこちない雰囲気が二人の間に流れました。
このときのショックは、言葉では言い尽くせません。全身から血の気が引いて、力が抜けていく感じがしました。
ただ、不思議と、相手への怒りはありません。
むしろ、会社に利益がないことで、唯一の同僚であり親友を、ここまで追い詰めてしまったことへの罪悪感が、胸にこみ上げました。
社長は、私です。結果責任は、すべて私にあります。言い訳しても、何も始まりません。
この日を境にして、私の意識はガラリと変わりました。
口先だけで夢を語るのでなく、❶どんなことでもやりきる決断、❷一点集中して退路を断つ覚悟、❸やるべき行動、この3つを徹底しました。
逆に言えば、必要な決断、覚悟、行動をしたからこそ、難局を乗り切れたのです。
上岡 正明
株式会社フロンティアコンサルティング
代表取締役社長