(※写真はイメージです/PIXTA)

「自分はダメな人間だ」「生きている価値がない」など、自分自身を貶め傷つける思考を抜け出せない…。今、このような“自己愛の発露としての自傷行為”をやめられない人が急増しています。ひきこもり専門の精神科医・斎藤環氏は、男性に比べ、女性の自傷的自己愛は「親(特に母親)との関係」の影響がはるかに強いと語ります。斎藤氏の著書『「自傷的自己愛」の精神分析』(KADOKAWA)より一部を抜粋し、女性の「自傷的自己愛」者における家族的要因を見ていきましょう。

母娘間で生じる「互いに無自覚な支配関係」

ここからは、主に母娘関係の特殊性に焦点を絞って述べてみたいと思います。そこには父と娘、母と息子、父と息子といった関係性には見られないような特殊な関係があります。端的に言えば、母娘関係は、しばしば無自覚な支配関係に陥りやすく、双方にその自覚がないためにこじれやすいという問題があるのです。

 

最近になって「毒親」という言葉をしばしば目にするようになりました。子どもに対して毒になる親、というほどの意味です。虐待をするような親も含まれますが、多くの場合、身体的な暴力などよりももっと曖昧(あいまい)な、心理的暴力を子にふるい続ける親、という意味で使われることが多いようです。私の印象では、「毒親」の告発は、娘から母へのものが最も多いように感じています。

 

毒親と言っても一様なものではありません。非常に抑圧的な母親のもとで苦しんでいる娘もいれば、逆に母親と密着しすぎて、離れるに離れられず葛藤している娘もいる。あるいは、傍目には一見仲良さそうな関係であっても、ふとしたはずみで水面下のどろどろした部分が眼に入ってしまう場合もあります。

 

もちろん父―息子関係だって大いに問題を抱えることがありえますが、「問題のありよう」はずっと単純です。父が敵ならば象徴的な「父殺し」をすればいい。これには社会的に父を超える、あるいは父と縁を切る、など、いろいろなやり方があります。母と娘の関係が難しいのは、これと同じ意味での「母殺し」がほとんど不可能だからです。

 

私はかつて、こうした母娘関係の特殊性に注目して、『母は娘の人生を支配する』(NHKブックス、2008年)という本を書きました。もちろん母娘問題は、日本だけで注目されている問題ではありません。母娘関係の難しさについて書かれた本は、欧米でもベストセラーになっています。つまり、それだけ普遍的な問題と考えられます。専門家では臨床心理士の信田さよ子(のぶたさよこ)氏が数冊の著書を発表されていますし、最近では漫画家の田房永子(たぶさえいこ)氏が、漫画作品やエッセイ、Twitterなどで積極的な発信をされています。

 

私の本も「男性にしてはまあまあよく書けている」くらいには評価されたようで、当初の予想以上に広く読まれましたし、母と娘というテーマの講演会にも講師として招かれる機会が増えました。拙著に対する、当事者からの共感や納得の声も大いに励みになりました。さしあたり私による問題提起とその分析は、そんなに的外れでもなかったのだと考えて良いでしょう。

 

以下、私なりに分析し得た母娘関係の問題を簡単に説明してみようと思います。

母から娘への「しつけ」は“身体の支配”を通じて始まる

(※写真はイメージです/PIXTA)
(※写真はイメージです/PIXTA)

 

<身体性とジェンダー・バイアス>

私の主張というのはかなり単純です。なぜ母娘が特殊なのか、それはつまるところ、双方が「女性の身体」を共有しているから、ということになります。父と息子だって身体を共有しているじゃないか、という指摘もあり得るでしょうが、あえて断言します。精神分析的な視点から見て、極論すれば男性は身体というものを持っていません。健康な男性の身体はいわば“透明な存在”で、それゆえ彼らは、日常的に自らの身体性を意識することはほとんどありません。彼らが自分の身体性を思い出すのは、病気など特別な場合だけです。

 

もちろん異論がある方もいらっしゃるかもしれませんが、この議論は男女のジェンダーをかなり抽象化したうえで、男性は自らの身体を意識しにくい心身の構造を持っている、というくらいに理解していただければ結構です。

 

これに対して女性は、普段から自分の身体性を意識せざるを得ない状況で生きています。第一に、月経をはじめとして、健康であっても身体的な違和感を覚える機会が男性よりもずっと多い、ということがあります。低血圧や便秘、立ちくらみ、頭痛といった不定愁訴を抱えている割合も、男性よりもずっと高い。日常的なレベルで、身体を意識せざるを得ない機会がたいへん多いのです。

 

第二の要因はジェンダー・バイアスです。「女らしさ」という言葉がありますね。試みに女らしさを構成する要素をイメージしてみてください。しとやかな仕草であるとか、おっとりしたしゃべり方であるとか、あるいは優美な服装や身のこなしなど、さまざまな要素が思い浮かびます。それらのほとんどは、身体性と深く関係しています。つまり女性を女性らしく育てるということは、「見られる性」として、女性らしい身体を獲得させることにほかならないのです。

 

その一方で、抽象的な「女性らしさ」もありますが、それは「優しさ」や「たおやかさ」「出しゃばらず控えめであること」など、その本質は男性的価値観(「筋を通す」「強さ」「積極性」など)をひっくりかえしたものがほとんどです。これらは言い換えるなら、主体的な欲望を抑え込み放棄させるという方向ですね。

 

以上を簡単にまとめるなら、「女性らしさ」のベクトルには二つの矛盾する方向性があることになります。

 

つまり、他者から見られ欲望されるような「女性らしい身体性」を獲得する方向と、自らの主体的欲望は抑え込みつつ「女性らしい態度」に徹するような方向ですね。このとき、「欲望」について前者は肯定、後者は否定という矛盾が生じます。この「女性らしさ」のはらむ逆説が、女性固有の空虚感や抑うつ感につながりやすいと言われています。

 

女性らしさを目指した「しつけ」は、女性らしい身体性と態度の獲得を意味するわけですが、少なくとも前者については母親にしかできません。つまり、母親による娘へのしつけは、ほとんど無意識的に娘の身体を支配することを通じて開始されることになるわけです。その目的がまっとうであろうといびつであろうと、まず発端にこうした「身体的同一化を通じての支配」があるということに注意してください。まさにこの点が、母娘関係を特別なものにするのです。こうした関係は、身体を共有できない母―息子、父―娘、父―息子関係では決してありえないのですから。

あなたのためを思って…を“呪い”に変換する「支配欲」

さて、母親による娘の支配には、いくつかの形態があります。中でも「抑圧」「献身」「同一化」の三つが、代表的なものと言えるでしょう。

 

もっとも露骨な支配としての「抑圧」は、言葉によってなされます。ここには単純な禁止の言葉も含まれますが、そればかりではありません。萩尾望都(はぎおもと)氏の作品「イグアナの娘」のように、母親からイグアナと言われ続けた娘は、自身をイグアナとしか認識できなくなるような事態が起こりうるということ。このとき、娘の身体を作り上げるのは、母親の言葉です。それらの言葉は娘に決定的な影響をもたらしますが、もちろん母親の意識としては「あなたのため」「よかれと思って」なのです。

 

親の何気ないひとことで、娘が人生の重荷を背負わされてしまう例は、よしながふみ氏の漫画「愛すべき娘たち」にもみられます。主人公・雪子(ゆきこ)の祖母は、娘つまり雪子の母・麻里(まり)に対し「あなたは可愛くない」と言い続けてきました。しかし実際には、麻里は通りすがりの人が振り向くぐらい美しい子どもでした。祖母は娘が周囲からちやほやされ、高慢な人間に育つことを危惧(きぐ)するあまり、「あなたは可愛くない」と言い続けたのです。これが呪いの言葉となって、麻里の人生を呪縛します。麻里は美人となって、歳を重ね人生を謳歌(おうか)しているように見えますが、自分の容姿に対するコンプレックスが抜けず、自己肯定感の形成に失敗したまま苦しみを抱えていたのです。

 

祖母が母に対して吐いた「呪いの言葉」が、娘のためを思っての言葉であったことは間違いないでしょう。しかし「呪いの言葉」というものは、決まって「あなたのためを思って」ではじまるものです。ほんとうは、祖母はこう言うべきでした。「あなたは世界一可愛いけれども、決してそれを鼻にかけてはいけませんよ」と。それが「あなたは醜い」という呪いに変換されてしまうのは、支配欲以外の理由を思いつけません。人間の根源には、他人を支配したい、他人を変えてやりたい、という欲望が潜んでいます。男性の支配欲はわかりやすいので反発や批判ができますが、女性の支配欲はかくも隠微で本人自身もその自覚がないことも多いため、きわめて強力でその影響も長期に及んでしまうのです。

「否定」と「愚痴」という無自覚な支配テクニック

私の見るところ、女性の「自傷的自己愛」者には、母から否定され続けてきた人が少なくありません。娘に限らず息子にとっても「親から否定され続ける」ことの影響は、ほぼ生涯にわたり続きます。ひきこもっている人の中にも、そうした処遇に強い怒りを感じ、親とは一切口を利かず顔も合わせずに生活している人がいます。それは病気の症状などではありません。いわば被害者の全存在をかけた復讐(ふくしゅう)です。そういうケースで「どうしたら関係修復できるか」という相談を受けることがありますが、なにしろ病気とは別次元の問題なので「許してもらえるまで謝り続けてください」としか答えようがありません。

 

女性の中には、思春期から一貫して「母親の負の感情のはけ口」になってきた人もいます。不思議なことに、息子に思うさま愚痴をこぼす母親は非常に少ない。母親のありったけの愚痴をぶつけられるのは娘、それも長女が多い気がします。

 

この「否定」と「愚痴」のセットメニューは、ほぼ無自覚になされているとは言え、きわめて巧妙な「支配」の手口になっています。どういうことでしょうか。娘は否定され続けることで自尊感情や自己価値感情が低下します。くわえて愚痴をぶつけられることで、母親を「自分がケアをしなければならない存在」として認識させられます。こうした状況下で養育された娘は「自分には価値がないのだから、せめて母親をケアしなければ」と思い込まされていきます。

 

もしも娘がどこかで、自分の不当な扱いに怒りを覚えたとしても、「ケアすべき存在」である母親に対してそれをぶつけることはためらわれます。仮に母親のもとを離れたとしても、「母親のケアという責務を放棄した」という罪悪感に苛(さいな)まれます。母親からの心理的虐待を恨みながらも結局は母親のもとに戻ってしまう娘は少なくありませんが、私にはそれが「うるわしい母娘の絆(きずな)」みたいな美談とは思えません。むしろ自分が認知症になった後でも見捨てられないために、時間差で発動する後催眠のような支配のテクニック、それこそが「否定」と「愚痴」のセットではないでしょうか。

娘の母殺しは「自分殺し」に直結する

(※写真はイメージです/PIXTA)
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娘へと向けられた母親の言葉は、しばしば無意識に母親自身を語る言葉です。つまり、母親自身が自らの葛藤を通じて作り上げたサバイバルのための言葉です。このとき母親の身体性は、「母親の言葉」という回路を通じて、娘へと伝達されていきます。すべての娘たちの身体には、母親の言葉がインストールされ、埋め込まれているといっても過言ではありません。それゆえ表向きはどれほど母親を否定しようとも、娘たちは、すでに与えられた母親の言葉を生きるほかはなくなります。「母殺し」が困難を極めるのは、こうした「内なる母の言葉」を消し去ることが困難であるからです。

 

「献身」という支配もあり得ます。母親の支配は、常に高圧的な禁止や命令によってなされるばかりではありません。表向きは献身的なまでの善意に基づいてなされる支配もあるのです。娘の学費を稼ぎ出すために身を粉にして働く母親、娘が自立してからも、ひんぱんに連絡を取ってはアドバイスしようとする母親、こうした善意は正面からは拒否も否定もできません。それが支配であると薄々気づいていても、そこから逃げることは娘たちに罪悪感をもたらすからです。臨床心理士の高石浩一(たかいしこういち)氏は、こうした支配形態を「マゾヒスティック・コントロール」と名付けました。

 

この種の支配は息子にはほとんど効きません。母の献身に対して、息子はまったく罪悪感を(そして感謝も)覚えないからです。ここにも「ジェンダー格差」がありますね。あるいは娘たちの覚える罪悪感とは、身体的な同一化なしでは生じ得ないような、特異な感覚なのかもしれません。

 

「同一化」とは、簡単に言えば、母親が娘に「自分の人生の生き直し」を求めることです。そこには「抑圧」も「献身」も含まれます。この形態が一番母親の利己性が強く発揮されるかもしれません。ですから、娘からの強い反発も生みますが、その反面、こうした支配形態が首尾良く完成すれば「一卵性母娘」ができあがります。ここまで同一化が進行してしまえば、もはや双方に支配―被支配の自覚はほとんどなくなっているでしょう。比喩(ひゆ)的に言えば、細胞レベルで身体が融合してしまっているような状態です。

 

支配が嫌なら逃げ出せば良い、とお考えでしょうか? 確かに別居したり距離を置いたりすることが有効な場合もあり得ます。しかし、言うほど簡単ではありません。母親による支配は、それに抵抗しても従っても、女性に特有の「空虚さ」の感覚をもたらさずにはおかないようなものです。まして抵抗したり逃げ出したりした娘は、解放感ばかりでなく強い罪悪感も抱え込みます。ずいぶんひどい扱いを受けながらも、母親の元に帰っていく娘たちが多いのはそのためもあるでしょう。同一化を通じてなされる支配においても「細胞融合」は起こっています。母殺しは自分殺しにそのままつながってしまうからこそ、困難を極めるのです。

 

 

斎藤 環

筑波大学 教授、医学博士

 

1961年生まれ。岩手県出身。筑波大学医学研究科博士課程修了。医学博士。爽風会佐々木病院・診療部長を経て、筑波大学社会精神保険学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、「ひきこもり」問題の治療・支援ならびに啓蒙。漫画・映画・サブカルチャー全般に通じ、新書から本格的な文芸・美術評論まで幅広く執筆。著書に『社会的ひきこもり』『母は娘の人生を支配する』『承認をめぐる病』『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)『オープンダイアローグとは何か』『「社会的うつ病」の治し方』ほか多数。

※本連載は斎藤環氏の著書『「自傷的自己愛」の精神分析』(KADOKAWA)から一部を抜粋し、再編集したものです。

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