(※写真はイメージです/PIXTA)

若者を中心に、かつてないほど「承認」への関心が高まっている現代において、いまや他者から承認されるか否かは「死活問題」といっても過言ではありません。ひきこもり専門の精神科医・斎藤環氏の著書『「自傷的自己愛」の精神分析』(KADOKAWA)より一部を抜粋し、今の若者が抱え込みやすい「承認依存」等の問題について見ていきましょう。

「他者からの承認」なくして自分の価値を認められない

前回もみたように、特に若い世代は、自身の価値を他者からの承認に圧倒的に依存しています。言い換えるなら、他者の承認がなくても自分の才能や能力、業績や社会的地位などといった客観的根拠を自信の拠(よ)り所とするような「自己承認」がたいへんに不得手のようにみえます。もちろんそれらも自信の根拠とはなり得るのですが、そうした要素ですら、いったんは他者に承認(感心や賞賛など)されることを経て、ようやく自信につながるというややこしい回路がある。

 

現代における自己承認の難しさは、他者からの評価、すなわち他者の主観においてしか、自身の価値を担保できない点にあります。「他者の主観」は意図的には操作できませんし、希少性があるぶんだけ、絶対視されやすい傾向があります。またSNSの介在は、他者の主観を集合的・定量的に可視化することで、ただの主観に客観性の装いを与えます。とんでもない暴論を吐く人でも、周りにそれを称賛する人しかいなければ、自分の暴論が客観的に正しいものであるかのような錯覚に囚(とら)われやすい。いわゆる「エコーチェンバー現象」ですね。

 

逆に「承認弱者」(承認を得られにくい、あるいは得られにくいと思っている人)においては、承認されない時期が長く続くと、その経験自体がトラウマ化してしまい、自己価値感情が著しく低下し、自分自身を過剰に脱価値化する(貶める)ようになります。ここでは言わば「逆エコーチェンバー現象」のようなものが起きているのかもしれません。承認の声が小さかったり聞こえなかったりすると、誰も批判などしていないのに、自分自身の批判の声を外部からの声のように受けとってしまう。一種の投影ですが、こうした声が増幅されて、しまいには「自分がダメであること」が客観的に根拠づけられたかのように思い込んでしまう。

 

単に「承認依存」と言っても、そこに自己承認は含まれず、親しい人からの個人的な承認の声も相対的には小さくなっています。もっとも価値があるのは、SNS的な承認の構造、いわば「集合的承認」です。「いいね!」の数が多いほど、承認は客観性や希少性という見かけ上の価値を帯びていくわけです。

 

集合的承認の仕組みは、ケインズの美人投票理論に似ています。経済学者のケインズは、投資家の行動パターンを美人投票になぞらえました。投資とは「100枚の写真の中から最も美人だと思う人に投票してもらい、最も投票が多かった人に投票した人達に賞品を与える新聞投票」に見立てることができる(Wikipedia「美人投票」より引用)、としたのです。

 

美人の基準は客観的なデータではありません。正しいかどうかわからない他者の集合的な主観を、個人が主観的に予測するため、客観的予測が困難で、自己判断もコントロールもあてにできません。その希少性こそが、美人=他者からの承認強者の価値を高めていくのです。承認をめぐるゲームもまた、こうした美人投票に似たところがあると思います。そのゲームでは、誰もが「どうすればウケるか」、すなわち、流動的な他者の集合的な主観のありようを予測しあいながら振る舞うことになる。典型的には「どんなツイートがバズるか」を考えているときの心理状態ですね。

「不安」と「依存」は紙一重…集合的承認の落とし穴

一般に若い世代ほど、自己承認を集合的承認に依存する傾向があります。集合的承認の構造は、個人の外にありながら深く内面化された価値も形作ります。この構図でいじめが起こると、いじめの被害者は加害者=他者が悪いにもかかわらず、他者の基準をあっさりと内面化し、しばしばそれを自己責任と考えがちです。「自分に悪い所があったせいだ」と思い込むので、加害者責任については考えられなくなります。現代とは、本人の意思や性格とは無関係に、集合的承認の構造そのものが、個人にインストールされてしまう時代なのです。

 

こうした集合的承認にはいくつかの特徴があります。まず、きわめて流動的である(ように見える)こと。「双方向性」を欠いていること。コントロールが難しいこと。

 

これらの特徴ゆえに、集合的承認は「いま得られている承認を、いつ失うかわからない」という不安と紙一重です。後述するスクールカーストの頂点の生徒ですら、こうした不安と無縁ではありません。何かのはずみで生徒集団の承認の風向きが変われば、たちまちカースト下位に転落することもありうる。これが「承認の不安」です。多くの依存症の根底には、不安があります。「承認の不安」が、現代的な「承認依存」をもたらしたとしても不思議ではありません。

 

コミュ力が高い人も低い人も、それぞれが大きな不安を抱えているのが、現代の特徴です。経済力や身体能力のような定量的裏付けのない「コミュ力」による評価は、きわめて流動的です。些細(ささい)なきっかけで自分の価値が切り下げられてしまいますし、SNSで得られる承認は一時的なものなので、コミュ力強者ほど、他者による「承認」に過剰な不安を覚える場合もあり得ます。

 

このように「承認依存」は若者の幸福度を高めている反面、多くの不安と不幸をもたらしています。

承認依存=つながり依存が生んだ「コミュ力偏重」文化

現代における承認依存とは、端的に言えば「他者とのつながり」への依存です。

 

つながり依存の背景には、通信環境の変化が大きく関わっています。とりわけ95年以降の商用インターネットの爆発的な普及と、ほぼ同時期の携帯電話(2000年代以降はスマートフォン)の普及は若者のコミュニケーション様式に革命的な影響をもたらしました。こうした通信インフラの発展に加えて、2000年代以降はLINE、Facebook、Twitter、InstagramなどのSNSが急速に普及しました。SNSでは、相互承認の手続きを通じてネット上にゆるやかな内輪のコミュニティを形成し、「いいね!」ボタンに象徴される承認のサインを、相互に送り合うのが作法です。

 

承認の量を手軽に可視化、数量化できる利便性ゆえにSNSは瞬く間に若者から中高年の間に普及し、スマホさえあれば、友人や恋人と24時間つながることが可能となりました。こうしたコミュニケーション環境が、「承認=つながり」の一元化をもたらしたのです。承認依存とつながり依存とは、ほとんど同義語と考えてもいいと思います。

 

承認=つながり依存とネットやSNSといったインフラの整備とは相補的な関係にあるため、その因果関係は単純ではありません。私の推測としては、インフラが整備されることによって、人々に内在していた承認欲求が見出(みいだ)され、その結果としてさらなる承認サービスが求められる、というポジティブ・フィードバックの過程が一貫して働いているように思います。

 

「承認=つながり」の一元化は、若い世代の対人評価に甚大な影響をもたらしました。私は「コミュ力偏重」と呼んでいますが、これは対人評価の基準が、ほぼ「コミュ力≒コミュニケーションスキル」に集約される事態を指しています。コミュニカティブであることは無条件に善とみなされ、コミュニケーションスキルの有無は、就活時などにはしばしば、死活問題ともなってしまいます。

 

この点も定量的な根拠を示すことは難しいのですが、社会文化的な事象を検討することで、コミュニケーション偏重を可視化することは可能です。後述するように、若者の幸福度の調査などからも、そうした推測は十分に可能となるでしょう。

コミュ力が低いと「カースト下位」に転落する社会

2000年代以降の顕著な傾向として、コミュニケーション関連の流行語が急増したことは誰もが知るところです。「コミュ力」(コミュニケーション能力)、「KY」(空気が読めない人)、「コミュ障」(コミュニケーションに障害がある人)、「非モテ」(異性にもてない人)、「ぼっち」(一人ぼっち)、「ぼっち飯」(一人でする食事)、「便所飯」(一人で食事をする姿を見られたくないためトイレの個室で弁当などを食べる行為)などは有名ですね。

 

派生語としては「クリぼっち」(クリスマスを一人で過ごすこと)、「チー牛」(「チーズ牛丼を注文してそうな顔」の陰気なキャラ、の意)、対義語としては「リア充」(リアルが充実している、すなわち実社会における友人や恋人がいて楽しく暮らしている人、の意)、「陽キャ」(陽気で明るい性格、の意)、「パリピ」(「パーティーピープル」の略。みんなで集まって騒いで楽しむのが好きな人々、の意)などがあります。中には「KY」「リア充」などのように死語化したものもありますが、その多くが現在も使われているところに、問題の根の深さを感じずにはいられません。

 

企業などが採用の場面において「コミュニケーションスキル」を重視し始めたのも最近の傾向です。社会教育学者の本田由紀(ほんだゆき)氏は、この傾向をハイパー・メリトクラシーと呼んで批判しました。かつて日本におけるメリトクラシー(業績主義)は、学歴社会や偏差値至上主義として批判されましたが、現代におけるハイパー・メリトクラシーとは、学校の成績以上にコミュニケーションスキル(曖昧〔あいまい〕に「人間力」などと呼ばれる場合もある)を重視する風潮を指しています。

 

現代の日本社会においては、勉強ができる以上に対人関係を円滑に進める能力が重視され、個人のコミュニケーション能力は、不断に評価の対象となります。今や全国の中学高校に浸透している「スクールカースト(教室内身分制)」において、生徒の階層を決定づける最重要要因は、コミュニケーションスキル(「コミュ力」)であるとされます。私の臨床経験からも、コミュ力が低いとみなされてカースト下位に転落し、そこから不登校やひきこもりに至ったと考えられるケースが少なくありません。

 

「承認依存」と「コミュ力偏重」は、相互に補強し合う関係にあります。コミュ力が高ければ多くの承認を獲得できる一方、コミュ力が高い個人ほど、他者からの承認に依存する傾向が強いのです。

 

 

斎藤 環

筑波大学 教授、医学博士

 

1961年生まれ。岩手県出身。筑波大学医学研究科博士課程修了。医学博士。爽風会佐々木病院・診療部長を経て、筑波大学社会精神保険学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、「ひきこもり」問題の治療・支援ならびに啓蒙。漫画・映画・サブカルチャー全般に通じ、新書から本格的な文芸・美術評論まで幅広く執筆。著書に『社会的ひきこもり』『母は娘の人生を支配する』『承認をめぐる病』『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)『オープンダイアローグとは何か』『「社会的うつ病」の治し方』ほか多数。

※本連載は斎藤環氏の著書『「自傷的自己愛」の精神分析』(KADOKAWA)から一部を抜粋し、再編集したものです。

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