(※写真はイメージです/PIXTA)

「自分はダメな人間だ」「生きている価値がない」など、自分自身を貶め傷つける考えを繰り返してしまう…。今、このような“自己愛の発露としての自傷行為”をやめられない人が急増しています。ひきこもり専門の精神科医・斎藤環氏の著書『「自傷的自己愛」の精神分析』(KADOKAWA)より、自己否定を繰り返しがちな人の「プライドは高いが自信はない」を見ていきましょう。誰もがおちいる可能性のある「自己愛の捻れ」に迫ります。

「プライドは高いが自信はない」…自傷的自己愛の人々

自傷的自己愛は、いびつさはありますが、病的と言い切れるような感情ではありません。そのいびつさについてはいろいろなことが言えそうですが、一番わかりやすい言い方は「プライドは高いが自信はない」でしょうか。

 

自信とプライドは同じではないのか? と疑問に感じられた方もいるでしょうが、厳密に言えば両者は異なります。ここで言う自信とは、今の自分自身に対する無条件の肯定的感情のことです。プライドとは「かくあるべき自分」へのこだわりのことです。精神分析的には前者は「理想自我」、後者は「自我理想」と呼ばれることもあります。この二つは両立することもありますが、しばしば逆相関の関係になりやすいようです。自信がある人はプライドにこだわらないし、プライドが高い人は実は自信がないことが多い、というように。ただし両方とも枯渇してしまったら、それは自己愛が壊れつつあるという意味で危険な徴候と思います。

枯渇した自信を高いプライドで補い、必死に支えている

ひきこもりの当事者には、「プライドが高いのに自信がない」という人が非常に多い。彼らがなかなか病院を受診したり支援機関に相談に行ったりしたがらないのは、しばしば高いプライドゆえです。「自分の頭はおかしくない」「支援者の助けを借りるなんて惨めったらしいことはしたくない」といったプライドです。しかし反面、彼らの自己評価は非常に低い。つまり自信がないのです。現在の自分には自信がないからこそ、あるべき自分の姿(プライド)にしがみつく。だから彼らは、支援に結びつくのが遅れがちになります。

 

ただ、だからといって彼らのプライドの高さに苛立(いらだ)ち、「現実を見ろ」「余計なプライドを捨てろ」「分相応に考えろ」などと批判するのは無益かつ有害です。自己愛の総体で考えるならば、彼らは枯渇してしまった自信を、高いプライドによって補い、必死で支えようとしている。そう考えれば、彼らに対して「プライドが高すぎる」とか「自己愛性パーソナリティ」などのような、安易な批判や診断を控えるべき理由もおわかりいただけるでしょう。よかれと思って「プライドの鼻をへし折った」結果として、自己愛に多大な損傷を負わせてしまう可能性があるからです。

 

繰り返しますが、自傷的自己愛の一番わかりやすい構造は、この「高いプライドと低い自信」というギャップです。プライド、すなわち、あるべき自己イメージの要求水準が高すぎて、現実の自分を否定するしかなくなってしまう。しかし、そんな自分をきちんと客観視できていることについては自信があるので、他人の前で自己卑下を繰り返しながら「正気の証明」をし続けてしまう。

 

私も経験がありますが、「自分で自分をとことん貶(おとし)めてみせる」瞬間には奇妙な快感があります。どんなに貶めても誰も傷つけず、誰からも文句を言われない――と思い込める――唯一の存在が自分自身です。その欠点も弱点もすべて知り尽くしている――ような気がする――存在も自分自身です。鋭利な刃で自分自身をずたずたに切り刻んでみせることがもたらす、一時の爽快(そうかい)感には、自傷行為と同様の依存性があるようにすら思えます。

 

松本俊彦(まつもととしひこ)氏らによれば、自傷は死に至る行為ではありますが、自殺企図ではありません。むしろ自傷は、少なくともその初期においては「死なないため」の手段とされています。自傷経験者はしばしば「切るとすっきりする」と言いますが、自傷には不安やいらいら、緊張などを解放するためのガス抜き的な効果があることがわかっています。自傷の瞬間にはエンケファリンと呼ばれる脳内麻薬が分泌され、それが心の苦痛も緩和してくれるというメカニズムも知られています。

 

また自傷行為には、周囲に自分の苦しい状況をアピールするための援助希求行動という意味もあります。ただ、何度も繰り返すうちに周囲も無関心になって本人が孤立していき、その苦痛をやわらげるためにさらに自傷が習慣化する、という悪循環が生じがちです。こうした悪循環が最終的に自殺既遂に至ることが非常に多いため、「自傷は死に至る行為」と呼ばれるのです。

自己否定は「承認」を求めるアピール

初期の自傷が「死なないため」になされる自己愛的な行為であるとしたら、自己否定的な言動についてはどうでしょうか。自傷的自己愛もまた「死に至る自己愛」なのでしょうか。そうしたリスクもゼロではありません。しかし、少なくとも初期段階においては、自己否定もまた自己愛の防波堤となっている可能性があります。どういうことでしょうか。

 

まず一点目として、自己否定は自傷行為と同様に、周囲からの承認を求めるアピールであり、意図せざる援助希求行動であるとも考えられます。彼らが無意識に行っているのは、自己否定が反論を誘発し、その反論に対してさらに感情的に反発することで、相手と「関係」することなのかもしれません。

 

二点目としては、自己否定が自己コントロールという側面を持つことです。彼らの自己否定は、自分はダメな人間である事実は自分自身が誰よりもよく知っており、自身を評価する権利は誰にも渡さない、という意思表示にも見えます。自傷がストレスコーピングの一つのスタイルであるのと同様に、自己否定にもそうした意味をみてとることができるでしょう。ネガティブなものであれ、現状を正確に認識しようとすることは、自己を適切に律しようとする試みの第一歩です。ただ問題は、本来はストレスコーピングであったはずのコントロールが、ひたすらネガティブな方向に傾いていきがちである点です。

 

これは「万能感」と「無力感」のどちらが訂正可能であるかを考えてみればわかりやすいと思います。万能感や全能感にまで高まった自己肯定感は、客観的事実や客観評価の壁にぶつかりながら修正を余儀なくされていきます。ひきこもったままの万能感は壁にぶつからないため修正困難な場合がありますが、社会との接点が維持されていれば万能感は修正を余儀なくされる。これは当然のことです。

 

一方、自己否定から来る無力感は、訂正がきわめて困難です。万能感も無力感も自己愛的な幻想に過ぎないのですが、万能感は先にも述べたように修正される機会が多いのに対して、無力感はそうした機会に乏しいためです。個人の無力感をなんとかしようと思ったら、周囲がその人を称賛したり肯定的評価をしたりして、無力感を修正しなければなりませんが、周囲の肯定的評価は本人が相手にしなければそれっきりですし、いつも周囲の人が好意的とも限りません。

 

そう、万能感はその本質からして開かれた幻想なので修正機会がありますが、無力感は徹底して閉じた幻想なので、修正がきわめて難しい。つまり自傷的自己愛は、徹底して閉じているという点で、もっとも完結した自己愛と考えることもできます。「自分はダメだ、どうしようもない人間だ」と「わかって」しまった人が、自分自身と和解することは、喧嘩(けんか)別れした他者との関係修復よりもずっと難しいでしょう。そういう人ほど「自分のことは自分が一番わかっている」という常套句(じょうとうく)を信じていますから、他者からの説得には耳を貸しませんし、自分で自分の意外な側面に気付くなどということは至難のわざでしょう。

誰もがおちいる可能性がある「自己愛の捻れ」

そうなると問題は「自傷的自己愛」という自意識のありようが、どんな問題をひきおこすか、ということになります。繰り返しますが、これは「病気」ではありません。誰もがおちいる可能性のある「自己愛の捻(ねじ)れ」です。ただそれが長期に続くと、さまざまな弊害につながることを述べておきたいのです。

 

まずは人間関係です。自傷的自己愛を持ってしまった人は、対人関係において、様々な問題を抱えます。典型的には、自分を卑下するあまり人間関係から遠ざかってしまうということがあり得ます。「自分のようなダメな人間と付き合ってもらうことは申し訳ない」「相手にとっても迷惑に違いない」「うまくいっている(であろう)人と会うといっそう惨めになる」といった理由から、仲間関係から離れていったり、親しかった人と距離を取ったりということが起こりえます。また、対人場面において自己卑下や自己批判を繰り返す人は、次第に敬遠されていくであろうことも想像に難くありません。

 

自己批判を繰り返す人ほど、自分と他人を比較したり、自分の価値について思い悩んだりするなどして、結果的に「自分について考え続けることで忙しい」状態に陥りがちです。この、自分に対する尋常ならざる関心ゆえに、私はそれを「自己愛」と呼ぶのです。それはともかく、自己批判的な人ほど、他者からの好意や愛情に対して鈍感になりやすく、また好意に気づいても自分で否定してしまいがちです。まして他者を愛したり好きになったりといったことは、いっそう困難になってしまいます。社会的には成功していながら自傷的自己愛を有すると思(おぼ)しい女性を何人か知っていますが、美人で聡明(そうめい)な彼女たちは一様に「自分がモテている」ことについて驚くほど鈍感か、無関心でした。この傾向はかなりの程度、一般化できるように思います。

 

このことと矛盾するようですが、自傷的自己愛を持つ人が、他者から向けられた好意を過大評価してしまい、その相手に強く執着してしまうこともあります。特に異性関係においては、「こんな自分でも愛してくれる貴重な他者」として過剰に執着し、相手が自分の期待に応こたえてくれないと、逆に激しく攻撃したり、ストーカーめいた振る舞いに陥ってしまう場合もあります。

 

 

斎藤 環

筑波大学 教授、医学博士

 

1961年生まれ。岩手県出身。筑波大学医学研究科博士課程修了。医学博士。爽風会佐々木病院・診療部長を経て、筑波大学社会精神保険学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、「ひきこもり」問題の治療・支援ならびに啓蒙。漫画・映画・サブカルチャー全般に通じ、新書から本格的な文芸・美術評論まで幅広く執筆。著書に『社会的ひきこもり』『母は娘の人生を支配する』『承認をめぐる病』『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)『オープンダイアローグとは何か』『「社会的うつ病」の治し方』ほか多数。

※本連載は、斎藤環氏の著書『「自傷的自己愛」の精神分析』(KADOKAWA)より一部を抜粋し、再編集したものです。

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