「食べるために働く」から「承認のために働く」へ
2017年版「自殺対策白書」には、若い世代の自殺が国際的に見ても深刻な状況にあり、「15〜34歳の若い世代で死因の第1位が自殺となっているのは、先進国では日本のみであり、その死亡率も他の国に比べて高いものとなっている」ことが指摘されています。同白書には、自殺死亡率の増加について以下のように記述されています。
「若年失業率と20〜29歳の自殺死亡率の推移を比較すると、両者は近い動きを示すことがわかる。こうしたことから、若年層における自殺死亡率の上昇は、経済状況の相対的な改善にもかかわらず、派遣社員、契約社員、パート、アルバイト等の非正規雇用の割合の増加など、若年層の雇用情勢が悪化していることも影響している可能性があるものと思われる。なお、特に20歳代以下の若者の『就職失敗』による自殺者数が平成21年を境に急増していることにも注意が必要である」
就活自殺について、「たかが就活くらいのことで」「探せば仕事はいくらでもある」といった批判もあるでしょう。もう還暦を過ぎて、なかば旧世代に属する私には、そういう感想は理解できます。しかし、かつて新人類と呼ばれた世代に属する私としては、そうした感想はもはや過去のもの、と言わざるを得ません。「たかが就活」というのは、「食べるために働く」という観点から導かれた発想だからです。
就職が「承認のため」というのは、こういうことです。望む職業に就くことで、友人知人から「すごい」と評価されること。そればかりではありません。恥ずかしくない就職に成功することで、同世代の友人たちから見放されないという安心感、合コンを含め異性関係の獲得に有利になること、そして結婚し家庭を持つこと…これらすべてが「承認強者」の条件となります。
実際にはこうした懸念の大半は杞憂(きゆう)で、多少条件の悪い職場に就職したからといって友人から見捨てられるなどということはそうそうないのですが、承認に依存してきた人にとっては、そうなるとしか思えない。周囲からあまり評価されない(と予想される)仕事に就くことは、たとえそれで食べていけたとしても、十分な承認が得られないだろうという予期ゆえに、自己愛は大いに傷つくでしょう。その結果、友人たちは何とも思っていないのに、自分から友人を遠ざけてしまう人も少なくありません。こうした状況下では、社会的評価の高い会社(職業)に、回り道をせずに就職できるかどうかが、誇張ではなしに死活問題になるのです。
「不採用=あなたは要らない」を受け取り続ける絶望感
アベノミクスのおかげ、かどうかは知りませんが、2010年代中期以降、大学生の新卒内定率は、一時バブル期並みの水準に戻ったと報じられました。しかし、その後も就活自殺の報道は続いています。就活自殺についての統計データは見当たらなかったのですが、依然として深刻な問題であることは間違いないでしょう。
それでなくても現在の就活システムは、承認欲求を傷つけずにはおかない構造になっています。一般に学生は、1社内定するまでに、平均13社落ちるといいます(「就活自殺」を救えるか…「大量エントリー・大量落ち」の残酷な現実 2019.11.26 「現代ビジネス」https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68592?imp=0)。
これは現代の就活が、オンラインでエントリーボタンを押し、筆記試験や面接などを経て内定を目指すというシステムであり、かつてよりもはるかに手軽に応募できることも一因とされています。気軽に大量のエントリーが可能なため、企業の側も面接前に大量の学生をふるいにかけます。このとき、表面的にはないことにされている学歴差別が、実際にはフィルターとして使われているようです。いくら気軽に応募できるからとはいえ、何社からも「あなたは要らない」と言われ続けるダメージに耐えられる人は多くはないでしょう。
まして、思春期の大部分を、「承認」のために同調圧力を受け容(い)れ、懸命に自己抑制してきた若者たちが、就活ではじめて自己分析や自己アピールを要請され、エントリーシートや面接場面で、その「自分らしさ」を繰り返し否定されるわけです。最終的に就職できたとしても、そこまでの過程で自己愛はかなりのダメージを受けるはずです。承認に依存して生きてきた度合いが強いほど、そうした絶望感は大きなものになるでしょう。
ここからは完全に憶測ですが、おそらくその人にとって「食うために働く」度合いが強いほど、こうした傷付きは軽く済むと思います。確実に食べていけることだけを目指すなら、自分の条件に見合った、確実に雇ってくれそうな職場を重点的に目指すほうが効率がいいのですから。しかし「承認のために働く」のであれば、自分の条件では無理そうな職種、会社などに「数打ちゃ当たる」式にエントリーして玉砕を繰り返すのも当然と言えば当然のことでしょう。
「この仕事、あなたに向いてない」と言われたら“終了”
ソニー生命保険は、新社会人1年目、2年目の人々を対象に、「先輩社会人に言われたら、やる気が奪われてしまうセリフ」という調査を行っていますが、近年の1位は、「この仕事向いてないんじゃない?」とのことです。周囲は何気なく言った言葉でしょうが、言われたほうは深く傷つき、人格否定と同じダメージを受けてしまうのです。こういう言葉も「食うため」と「承認のため」では受け止め方が違うでしょう。「食うために働く」派は、向いていようがいまいが解雇されなければ何の問題もありません。しかし「承認のために働く」派にとっては致命的です。「この仕事向いてない」ということは、この会社には居場所はなく、誰からも承認される可能性がないと言われたようなものですから。
いやいや、「向いてない」と言われたら頑張ればいいじゃない、と言いたい人もいるでしょう。ところが、現代の若者には、そういう発想すらもかなり乏しいのです。どういうことでしょうか。
彼らの多くは「努力も才能のうち」と考えています。元はイチロー氏の言葉だそうですが、本来の意味は才能がなくても努力でカバーできる、というものだったはずです。しかしこの言葉を口にする若者の理解では「努力をする才能」がないと努力すらできない、ということになります。さらに言えば、その背景には「どうせ頑張っても何も変わらない」という思い込みがあるようなのです。
今後、自分が成長するはず、という予測が立てられない。だから、自分の力を信じて、将来はもっとよくなるという楽観を持つことができません。ある経営者に聞いた話ですが、最近の新入社員は苦手なことを頼まれると「自分にはセンスがないから無理です」と答えるそうです。ここで「センス」というのは、一種先天的な才能のことを意味しています。だから「自分には〇〇のセンスがない」ということは、どんなに頑張っても〇〇をうまくやれるはずがない、という意味になります。言わば徹底した「変化への不信」があるのです。とはいえ、そんな風に言いながらも、その社員はそれなりに頑張ったり言われたことをこなしたりしているようなので、単に自信がないだけなのかもしれません。
「自分に変化なんか起きるわけがない」
こうした「変化への不信」は、ひきこもりの若者たちの臨床場面でも感じることです。彼らは自分に変化なんか起きるわけがないと思い込んでいて、希望を持つことは無駄だと思っています。だから彼らは、頑張って社会参加する、などということを、あらかじめあきらめているのです。あきらめて動かなければ何も変わらない。そうやって年月が過ぎ去って、彼らは「やっぱり何も変わらなかった、思った通り」と思い込む。動いていないのだから当然なのですが、こうなると悪循環になります。もういっそ「変わらなくても構わない」「変わらないことを楽しもう」と考えればいいと思うのですが、何しろ彼らの考え方はとてもまっとうなので、そこまで割り切ることも難しい。これは苦しいです。
思えば私は若かった頃、まだ何者でもない自分に強い引け目や劣等感を覚えながらも、どこかで「自分には無限の伸びしろがある、そのうちなんとかなるさ」と考えることで心のバランスを保っていた、という思いがあります。ですから、自傷的自己愛まではかなり共感的に理解できるつもりでも、この「変化への不信」だけはどうしても共感できないのです。彼らももう少し、自分の伸びしろや変化を信じることができたら自分の人生も楽観できるし、楽に生きられるだろうにな、といつも思います。
もうおわかりのことと思いますが、自分の変化を信じられない若者にとっては、「この仕事に向いてない」という評価はあまりにも決定的です。つまり自分は、先天的に、どう頑張っても、死ぬまで、この仕事は「向いてない」状態が続く、ということになるのですから。もちろん言った側がそこまでの強い意味を込めて発言しているわけではないはずですし、実は彼らにもそれはわかっています。それでも、たとえ瞬間風速でも、自分についてそういう印象を持った人がいた、という事実だけで、打ちのめされるのには十分なのです。
このように言うと、すぐ言われるのは「近頃の若者はひ弱すぎる」といった批判です。もちろん私はこの点に同意できません。若い世代は確かに「承認依存」という弱点は抱えているかもしれませんが、反面、旧世代よりもコミュニケーションスキルははるかに高い。Z世代と呼ばれる世代からは、藤井聡太(ふじいそうた)氏や大谷翔平(おおたにしょうへい)氏といった、フィクションでもあり得ないような突出した才能が出てきています。
若者全般でみると、生活満足度、つまり幸福度は上昇している。かつてよりも幸福感を覚える才能は伸びている可能性もある。要するに世代を経ることで弱点は移動したかもしれませんが、全般的に劣化するなどということは起きていない。だから私は、若い世代にあきれたり絶望したりという態度はとりません。その上で、今の若者が抱え込みやすい「承認依存」や「自傷的自己愛」といった問題について指摘し対策を考えようとしているのです。
斎藤 環
筑波大学 教授、医学博士
1961年生まれ。岩手県出身。筑波大学医学研究科博士課程修了。医学博士。爽風会佐々木病院・診療部長を経て、筑波大学社会精神保険学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、「ひきこもり」問題の治療・支援ならびに啓蒙。漫画・映画・サブカルチャー全般に通じ、新書から本格的な文芸・美術評論まで幅広く執筆。著書に『社会的ひきこもり』『母は娘の人生を支配する』『承認をめぐる病』『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)『オープンダイアローグとは何か』『「社会的うつ病」の治し方』ほか多数。