高校時代に「軟式野球同好会」を創設したが、3年には「補欠」となり、最後の夏の大会で代打出場して3球三振で終わったビビる大木氏。やりたいことを自分で始める勇気を持つことができ、一歩を踏み出せたといいます。ビビる大木氏が軟式野球同好会を創設して得た教訓を著書『ビビる大木、渋沢栄一を語る』(プレジデント社)で明かします。

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「軟式野球同好会」の創設の甘く切ない青春

ビビる大木:「軟式野球同好会」を創設したヒーロー
渋沢栄一:およそ人は自主独立すべきものである

 

僕は高校時代に、「軟式野球同好会」の創設をしました。この同好会の創設は、高校時代を振り返ったときに、必ず思い出される僕の高校時代3年間を通じての金字塔です! しかし、金字塔でありながら、甘く切ない思い出でもあります。この話を聞いた人の120%は、苦笑いをされるほどです。

 

中学校のとき、僕はバレーボール部でしたが、高校時代にはバレーボール部以外の運動部に入りたいと思っていました。ところが、いろいろな運動部の様子を見に行きましたが、入りたい部がありませんでした。

 

仕方なく、バスケットボール部に体験入部をしました。当時、『SLAM DUNK』を読んでいて、「じゃあ、バスケにしてみようかな」という気持ちでした。バスケが大好きというわけではなく、他に自分が興味を持てそうな運動部がなかったからです。そんなことですから、体験入部をしてみても「なんか違うな」と思いました。

 

「なんか違うな」と思いながら、バスケ部を続けるよりも、「自分がやりたい部活がないのならば、やりたい部活を自分でつくったほうがいいんじゃないかな」と思い、2年になると「軟式野球同好会」を、硬式野球部から先生を引き抜いてつくりました。

 

硬式野球部には、何人かコーチの先生がいました。同好会を創設するにはコーチが最低一人、必要でした。そこで、一人の先生に、「僕たちの軟式野球部に来てくれませんか。自分たちで部活動をしたいんです」と丁重にお願いしたのです。

 

学校としては、「硬式野球がもうあるから、野球部をもう一つつくる意味がない」という空気でした。「もう、おまえたちが使うグラウンドもないぞ」とも言われました。「じゃあ、グラウンドも、僕たちで探します」と、学校の周辺を歩きながら空地探しをしました。

 

すると、学校から15~20分走ったところに空地がありました。千葉県だったので、田舎です。使用の許可をいただき、空地を使うことができるようになりました。放課後にみんなで移動して、練習して帰る軟式野球同好会のスタートでした。

 

渋沢さんの言葉に、「およそ人は自主独立すべきものである」というものがあります。その教えは次のような意味があるそうです。

 

「人は誰もが自分が、人生の主役です。そう信じて、あなたは主人公らしく、自分の足で立つことが重要です。自分の力で立ち上がることが大切なのです」「敗者、弱者だって、自分を人生の主役だと思って生きています。その義務も権利もあります。彼らも自立したいと願っています。手助けするときには、この精神を助ける姿勢が大切です」

 

この軟式野球同好会創設の話は、まさに僕にとって最初の自主独立の行動だったように思います。渋沢さんも、きっとそう思ってくれると信じます。

 

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※本連載は、ビビる大木氏の著書『ビビる大木、渋沢栄一を語る』(プレジデント社)より一部を抜粋・再編集したものです。

ビビる大木、渋沢栄一を語る

ビビる大木、渋沢栄一を語る

ビビる 大木

プレジデント社

歴史好き芸人・ビビる大木が、 同郷の偉人・渋沢栄一の遺した言葉を紐解く! 「はじめまして、こんばんみ! 大物先輩芸人と大勢の後輩芸人の狭間で揺れる40代『お笑い中間管理職』の僕。芸人としてこれからどうやって生き…

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