平時の政治に求められるのは「資源配分のアート」
■日本の政府による愚民化政策の限界
私は、社会運営に用いられる指標についても、同様に、何か一つの指標が突出して重視されるのではなく、私たちが目指す高原社会を捉える複眼的な視点に立脚したバランス・スコアカード的な考え方が必要ではないかと考えています。
ではその「スコア」とはどのような指標で構成されるのか?
それこそ、まさに「どのような社会を作りたいのか?」という議論の後に考察されるべきテーマですが、高原社会が「誰もが生き生きとして、自分らしさを発揮できる仕事に就いて、健康で文化的に充実した人生を送ることができる社会」として構想するのであれば、その社会指標には、次のような「フローとストック」「質と量」「短期と中長期」に関する項目が含まれていなければならないと思います。
・GDP(場合によっては計量法を修正されたもの)
・主観的幸福感・生活満足度
・貧困率および経済的格差の水準
・失業率
・仕事に感じるやりがいの水準
・労働時間
・障害者の社会参加および所得の水準
・学習機会・成長機会へのアクセス
・芸術・文化へのアクセス
・自然環境へのアクセス
・医療へのアクセス
・コミュニティへのアクセス
・社会関係資本の状態
・多様性の水準
・総排出炭素量等、環境負荷の水準
・自然環境の保全の度合い
これらの要素を、すべて同時に満足させることは当然ながらできません。経済成長を優先すれば、アメリカのように悲惨な格差社会を招くことになりますし、格差の是正にウェイトをおけば経済成長はある程度犠牲にせざるを得ません。しかし、だからといって何かの要素をバサッと切り捨てることも、それはそれで許されません。
ここが企業経営と社会運営の大きく異なるところです。企業経営ではメリハリが重視されるので、おかれた文脈に応じて少数のKPIだけを集中的に向上させるのを目指すことが一般的ですが、平時の政治に求められるのは「資源配分のアート」なので、何かを切り捨てることなく全体にバランスを取りつつも、文脈に応じてある程度のウェイトを変化させることが求められます。
本来であれば、二大政党制というのは、これらの指標のうち、政策としてどの指標を優先し、どの指標を劣後させるのかという論点について意見を戦わせる二つの政党が、選挙を通じて、それぞれの「社会構想」を国民に訴え、国民はそれらの構想提案をよく吟味して投票することではじめて機能するわけです。
しかしながら、日本は政府による愚民化政策が非常にうまく機能してしまったために、このようなメカニズムがまったく機能せず、ほぼ一党独裁のままにすでに4分の3世紀が過ぎようとしています。しかしもう、このやり方は限界に来ているのではないでしょうか。
山口周
ライプニッツ 代表
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