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3万年前からケシを利用?
3万年前の化石から、ネアンデンタール人もケシを採取していた痕跡が確認されています。また、紀元前7世紀のアッシリア人の医学目録にもケシを利用していたことが記述されています。メソポタミア文明を築いたシュメール人は、紀元前4〜3世紀に、ケシの栽培やアヘンの製造方法について粘土板に楔形文字で記し、シュメール人はケシを「歓喜、至福をもたらす植物」と呼んでいました。
古代ギリシャの詩人ホメロスが記した長編叙事詩『オデッセイア』では、トロイア戦争の後、英雄オデッユセウスが10年に渡って旅をする物語が描かれていますが、この中でもケシと考えられている薬が登場します。トロイア戦争の記憶に苦しむ人に、苦しみを忘れさせる薬を混ぜたワインを飲ませるという件があるのです。
古代ローマの将軍で博物学舎のプリニウスが、77年に完成させた記した百科全書『博物誌』にも、ケシから採取した汁が催眠剤として利用できることや、多量摂取すると死に至ることが記されていました。
シルクロードを通じて世界に拡散
主に地中海方面に生息していたケシを広めたのは、アラブの商人だったと考えられています。彼らは自分たちが体調不良や不眠に悩まされた時に利用するほか、行く先々で物々交換をしたと推測されているのです。ケシはシルクロードに沿ってインドや中国へ伝わったようです。
日本に伝わった時期ははっきりしませんが、『源氏物語』にも「芥子」が登場します。ただし、ケシにはさまざまな種があるので、アヘンの原料となる種かどうかまでわかりません。また、室町時代にインドから奥州津軽に伝わって栽培されたという記述もあります。江戸時代の文献では、アヘンの製造方法が元禄2年(1689)年に、備前岡山藩の藩医から弘前藩に伝授され、元禄12年(1699)には青森県で栽培されていたことが記されています。
アヘンチンキの過剰摂取で死亡
16世紀になると、錬金術師のパラケルススがアヘンをアルコールに溶かしたチンキ剤「ラナダウム」を製造しました。17世紀にイギリスの医師トーマス・シデナムが、ラナダウムの調剤レシピを簡素化し、万能薬として販売するようになりました。
19世紀になるとイギリスでは、頭痛や咳、下痢、リウマチ、鬱など広範な病気に効果があるとして幅広く利用され、薬局だけでなく、パブや食料品店でも簡単に入手できました。「人間の苦しみを和らげる為に神が与えた薬のなかで、アヘンほど普遍的で効果的なものはない」といわれるほど、一般的な薬だったのです。
また、芸術的なインスピレーションをもたらす考えられ、チャールズ・ディケンズやエドガー・アラン・ポー、ジョージ・エリオットなど多くの詩人や作家、芸術家が服用していました。
しかし、当然のことながら中毒性があるので、依存症に陥ったり、中毒死する例も少なくありませんでした。名作『嵐が丘』を記したエミリー・ブロンテの兄、ブランウェル・ブロンテは画家を志していましたが芽が出ず、アルコールとラウダナムの依存症になり31歳で中毒死しました。
19世紀中頃、イギリスの美術界では「ラファエル前派」と呼ばれる芸術家のグループが生まれました。彼らは、自然のありのままの姿を描こうとし、代表的な作品にジョン・エヴァレット・ミレイの名画『オフィーリア』があります。この絵のモデルを務めたエリザベス・エレノア・シダルもラナダウムで死亡した一人です。シダルは、モデルだけでなく詩人や美術家としても活躍した女性です。
『オフィーリア』を描く際に、ミレイはアトリエのバスタブに水を貼り、シダルは長時間水の中でポーズを取らなければいけませんでした。そのため肺炎になり、医者からラナダウムを処方され、これが長期服用の引き金になった可能性が指摘されています。
シダルは詩人のダンテ・ガブリエル・ロセッティと一緒に暮らすようになりましたが、ロセッティは他にも恋人を作り、同棲しているのにシダルを親に紹介しないなど不誠実な態度を取り続けました。やがてシダルは、不安や抑うつを訴えるようになりました。ロセッティが残した手紙によると、ほとんど食事をとらず、脱力感をしばしば訴えていたようです。
1860年に二人はようやく結婚し、シダルは妊娠しますが、残念なことに死産でした。その後、シダルは深い鬱状態に陥り、ラナダウムの過剰摂取によって、子どもの死産から9か月後に、32歳の若さで死亡しました。自殺であったとも考えられています。
なお、ロセッティは彼女を埋葬する際、彼女への愛を綴った未発表の詩を記したノートを棺にいれますが、7年後に墓を掘り返し、ノートを取り戻しました。そしてシダルの詩と一緒に出版しています。信じられないことに、棺を掘り起こした時にシダルはまだ美しいままで、髪も伸び続けていたという逸話が残っています。