(※画像はイメージです/PIXTA)

「伊丹の酒、今朝飲みたい」という文章をすべて平仮名で書くと「いたみのさけ、けさのみたい」という回文になります。兵庫県伊丹市はわが国を代表する日本酒(清酒)の産地の一つ。伊丹の酒はこのような言葉遊びに使われるほど古くから造られています。この地で創業した小西酒造は「日本化学の祖」とされる蘭学者、川本幸民が著した『化学新書』の記述を基に幕末のビールを復刻。老舗ならではの経験や技術で幕末の味を蘇らせました。

自ら翻訳した『化学新書』を頼りに試作

日本酒の醸造会社がなぜ、アルコール飲料における競争相手でもあるビールの製造に乗り出したのか。その謎解きは少し後回しにするとして、幸民の挑んだビール製造の様子を紐解いてみましょう。

 

幸民は現在の兵庫県三田市で生まれた蘭学者です。「蘭」はオランダを漢字表記した「阿蘭陀」に由来します。蘭学が江戸時代中期以降、オランダ語を介して日本に伝えられた西洋の学術や文化を研究する学問であることはご存じの通り。その中には今日の医療につながる医学も含まれていました。

 

日本にビールが伝えられたのは鎖国下の1724年。長崎のオランダ商館長、ヨハネス・テイデンスを通じてのことでした。好奇心に富み、味わうだけでなく自ら製造に挑むのは後に「日本化学の祖」と称される幸民らしい探求心の表れでした。

 

幸民が試作に際して用いたのはドイツ語の『化学の学校』を自ら翻訳した『化学新書』です。同書には麦芽1、水3、湯4を配合し、1~2時間おいて65~70度に保つとできるモルトの製法や30度に冷まして酵母を茶さじ1杯加えるなどといったことが記されています。

 

製造といっても自宅の一角を利用した試作レベルでした。しかし、現代の製法に照らしてもその精度は高く、アルコール分は今日と同様の4~5%であったと伝えられています。

 

自らの著書に記載されたレシピで曲がりなりにも作り出した本邦初のビールが陽の目を見たのは1853(嘉永6)年。日本に開国を迫るべくペリーが浦賀に来航した年です。

古文書と古地図で製造地を探し当てる

その年から数えて約160年後の2010年、小西酒造は「幕末のビール復刻版 幸民麦酒」の発売に漕ぎ着けました。これまでにも大手ビール会社が『化学新書』に基づいた復刻を手がけたことはありますが、あくまでも試飲用。市販を目的として製造したのは小西酒造が初めてでした。

 

幸民の試作したビールの復刻は「川本幸民生誕200年記念イベント」の一環として企画されたもの。幸民の出身地、三田市の当時の市長が町おこしに弾みをつけるため、小西酒造に「幸民麦酒」の製造を依頼したことが始まりです。商品化には、生誕200年を機に幸民の業績を広め、出身地に関心を持ってもらうことで、地名の三田を「みた」ではなく「さんだ」と正しく読んで欲しいという市の願いも込められていたといいます。

 

同社は三田市から譲り受けた『化学新書』の写しを基にレシピを分析しました。しかし、当時の時代背景や幸民の「人となり」を理解しなければ本当に幸民の試作したものと同じ味は再現できないと判断。ビール醸造責任者を中心とするプロジェクトが本格的に動き出しました。

 

国会図書館や江戸東京博物館などにも足を運ぶ丹念な調査の結果、幸民麦酒は現在の日本橋茅場町で製造されたことが判明。幸民の弟子の一人が1849(嘉永2)年に母親に宛てた手紙の中の「茅場町の川本幸民宅に厄介になる」という一文が手がかりとなりました。

 

奇遇にも当時の小西酒造は茅場町に江戸店を開いていました。偶然の糸を手繰るように、関係者は茅場町近辺の古文書や古地図を根気強く照合。1854(嘉永7)年の古地図上に幸民宅と思われる記載を探り当てます。幸民麦酒が製造されたと伝わる1853年の翌年の古地図であることから、同社はこの地で造られたとみて間違いないと推し量りました。

ビール酵母の代わりに清酒酵母を使った

幸民麦酒の製造方法は『化学新書』に記載されています。そのレシピに沿って手順を踏めばいともたやすく幸民の造った味に辿り着けるはず……。

 

そう思っていた関係者を悩ませたのは醸造の決め手となる酵母についての記述が曖昧なことでした。それらしい箇所にオランダ語の「ギスト」と記されているだけで、ビール酵母を使ったかどうか分からなかったのです。

 

幸民が試作した頃はまだ、酵母が発酵することが広く知られていませんでした。しかし、西洋ではスターター、日本では酛(もと=清酒の醸造に用いる酒母)と呼ばれ、酒造りになんらかの重要な役割をしていることは分かっていたようです。

 

当時の情勢で、ビール酵母を生きたまま欧州から日本まで運べたかどうか定かではありません。しかし、あくまでも参考ですが、東京銀座の木村屋總本店が1874(明治7)年にあんぱんを製造した際には酒種(清酒酵母)を使っています。

 

幸民の人となりについて言えば、大酒飲みで清酒に精通していたと伝えられています。また「研究に妥協を許さない研究者」と評している文献もあります。

 

こうしたことから、同社では、当時でもたやすく入手できた清酒酵母を使ったのではないかと推定。幸民麦酒にも清酒酵母を使用しています。

老舗として「誰も歩いていない道を行く。」

いわば「お家芸」の清酒酵母を用いて幸民麦酒を現代に蘇らせた小西酒造は日本一古い日本酒の銘柄「白雪」で知られる、清酒業としては最古の醸造会社です。創業は室町時代の1550(天文19)年。布教のためにスペイン人宣教師、フランシスコ・ザビエルが来日した頃です。

 

同社の源流を辿ると、仕事のかたわら酒造りを始めた薬種商に行き着きます。人間の年齢に例えれば471歳という「超々高齢者」の会社であるにもかかわらず、いつも新しいことに挑み続けています。

 

「ただ単に歴史が古いだけでは時代に取り残されます。そうならないように、当社は『誰も歩いていない道を行く。』という気持ちをいつも大切にしています」。小西新右衛門社長は同社の経営理念をそう語ります。

 

同社は日本に初めてベルギービールを紹介した会社でもあります。本社を置く伊丹市とベルギーのハッセルト市が姉妹都市であった縁によるものです。

 

その意味で、幸民麦酒の復刻は「誰も歩いていない道」の好例といえるでしょう。根底には歴史の重い看板を背負った誇りと情熱があります。どんな困難に出合っても、ひるむことなく前を目指す。同社のこうした考え方は医療の世界に通じるかもしれません。
 

 

 

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