最近の注射が「痛くない」感動の理由 (※画像はイメージです/PIXTA)

わが国における新型コロナウイルスのワクチン接種数は9月上旬で1億を超えました。接種時に用いるのはもちろん注射器です。しかし、針を刺される時の痛みが苦手で注射を嫌う人は少なくありません。ところが、1型糖尿病の患者は、病院や自宅でインスリンを1日に何回も打っています。その時の痛みを何とか感じにくくする注射針を提供できないか。医療機器製造会社、テルモの「痛くない針」の開発は技術者のささやかな願いから始まりました。

年間1000回以上の注射を打つ糖尿病患者

糖尿病はよく知られるように、血液中のブドウ糖(血糖)が増え続けることで、将来的に心臓病や失明などの合併症につながってしまう病気です。なかでも、1型糖尿病は主に自己免疫疾患であり、自分の身体の中でインスリンが生成できなくなった病状を指します。

 

血糖の状態を安定させるためにはインスリンを1日に数回注射しなければなりません。このため、糖尿病患者が治療のために打つ注射の回数は年間1000回を超えるといわれています。

 

通常、ワクチン接種などで使用する注射器は、病院などで医療従事者が使用します。すでに触れたように、1型糖尿病の治療のために、病院ばかりでなく、病院以外の場所でも自分で注射しなければなりません。

痛点の間隔よりも細い針なら痛くない

開発に携わる技術者たちは「インスリン注射のたびに痛みをこらえる患者さんの負担を少しでも減らす」ことを目指しました。患者が子どもであればなおさらです。1年に1回ならばなんとか我慢できる。しかし、1日に数回となれば話は変わります。

 

技術陣は針が刺さる時の痛みを軽減するための方法をさまざまな角度から研究しました。なぜ、針が刺さると痛みを感じるのか。それを和らげるにはどうすればよいのか。導かれた方法の一つは「針を細くする」ことでした。

 

皮膚の表面には「痛点」が分布しています。受けた痛みや熱さなどを脳に伝えるための一種のセンサーです。一般的に1平方センチあたり100~200あるとされています。「痛みを感じるのは痛点に触れるから。ということは痛点に触れなければ痛くない。だから、針の太さを痛点の間隔よりも細くすればよい」という理屈です。

相反する条件にどう折り合いをつけるか

技術陣の開発の方向性は明快でした。「針を細くすればよい」。しかし、事はそうたやすくはありませんでした。細くすればするほど薬液が通りにくくなるからです。相反する条件にどう折り合いをつけるのか。技術陣にとって悩ましい日々が続きました。

 

「直径の細さ」と「薬液の通りやすさ」の両立に狙いを定めた研究は「テーパー針」の開発に辿り着きました。テーパー針とは、先端に向かって徐々に細くなる形状です。痛みを減らす細さと薬液の通りやすさを実現する理論はこうして固まりました。

 

一般的に、多くの患者に使用してもらうには、億単位の規模の大量生産を前提とした製造方法の確立も必要です。ところが、苦心の末に考えをまとめ、設計図面に起こした新製品を大量に、安定した品質で製造できる技術は社内にはありません。そこで、手がけた構想を具体的なモノにするため、同社は100社以上の企業や工場にあたりました。

 

来る日も来る日も良い成果が得られず、時にくじけそうになる担当者の支えは「痛みをこらえる患者さんの負担を減らしたい」という初心でした。そしてついに、職人気質で知られる東京都墨田区の町工場が、独自の金型技術とプレス加工技術で、テルモの期待通りのテーパー針を製造する技術を完成させました。

パイプを切るのではなく、板を丸める

町工場の「技術の粋」を集めて実現した製品は2005年に「ナノパス」という製品名で発売されました。細さ0.2ミリ、長さ5ミリを誇る「世界でも最も細いインスリン用の注射針」です。この年のグッドデザイン賞にも輝いています。2012年にはさらに細い0.18ミリ、長さ4ミリの製品を追加。同社が樹立した最も細い針の記録を自ら塗り替えました。

 

打診した100社余りが尻込みし、通常の「業界常識」では実現できなかったテーパー針はどのように形になったのでしょうか。従来の注射針はごく簡単に言うと長いパイプを同じ長さで切っていました。ですから、針の根元から先端までの太さは同じです。

 

一方、先端が細く、根本が太いナノパスはステンレス製の薄板を金型に押し当てて一つずつ丸めます。この加工によって、針の内径も外径も先端に向かって細くなる「ダブルテーパー」構造を実現しています。

 

この構造は、薬を押し込むときの注入抵抗を減らせるのが利点です。先端部はあえて左右対称でなく、非対称構造を採用。「針を突き刺すのではなく、刀のような鋭い刃先で小さく切る」ようにしました。最先端部を刀面にしたことも「痛くない針」を実現する技術の一つです。

累計15億本以上が糖尿病治療に貢献

ナノパスは2005年の発表以来、これまでに国内で累計15億本以上を販売。糖尿病治療に貢献しています。2019年にはこれまでの長さ4ミリをさらに1ミリ短くした「ナノパスJr.」を発売しました。

 

この製品の開発コンセプトは「こわくない針」。「痛くない針」の理念を受け継ぐものです。先端はこれまでと同じ0.18ミリですが、やせ型の患者や子どもにとって、より使いやすくなっています。1ミリといえども短くすることは威圧感を和らげ、不安な気持ちを減らすのに効果があると期待されています。

 

ナノパスシリーズの開発と普及はこれまで、当事者以外にはなかなか理解ができなかった「糖尿病患者の心身両面の負担」に光を当てました。そして、それらを減らすという当初の目的達成にも寄与してきました。

 

同社は糖尿病治療の進化に応じて、皮下に留置したプラスチック製の細い管を介してインスリンを持続的に注入する貼り付け型機器(パッチ式インスリンポンプ)や血糖値を測定する機器などを展開しています。それらの根底にあるのは、糖尿病患者の生活に寄り添うという思いでしょう。

 

「夢は願えば叶う」と物言いがあります。それは「願わなければ叶わない」ということでもあります。糖尿病の子どもたちの痛みをなんとかしたいという同社技術者の情熱が「夢」の原動力となったことは間違いないようです。
 

 

 

伊藤公一事務所 代表/ジャーナリスト

元新聞記者、雑誌編集者。新聞、雑誌、フリーペーパー、webなど、さまざまな媒体に関わりながら、一貫して取材、執筆、編集業務に従事してきた。現在はメディカル分野に軸足を置き、フリーランスの立場で活動を続ける一方、各種出版物の編集受託や自費出版などのコンサルティングなどにも携わる。東北大学大学院医工学研究科「医療工学技術者創成のための再教育システム」修了。日本メディカルライター協会正会員、認定自費出版アドバイザー、文章セミナー講師。1956年、愛知県生まれ。

著者紹介

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