鈍感で思いやりのない夫を、苦々しく思っていたが…
夫のことが、鈍感で、思いやりに欠け許せないと感じている女性のケースで考えよう。
妻は、自分がイライラさせられるのは夫に原因があるのだと考え、夫を責め続け、その結果、関係は悪化の一途をたどっていた。
ところが、彼女は自分の子ども時代を振り返る中で、いつも愛情不足を味わい、関心を得ようとして、よく癇癪を起こしていたことを思い出した。そして、同時に、女性は気づいたのである。
幼い自分が、小さな弟のことにばかり関心を向ける母親に対して怒りを感じ、母親をなじったり困らせたりしていたことが、今、夫を思いやりがないと責め立てているのとそっくりだということに。幼いころのやり場のない怒りを、今も引きずり、自分に無関心な母親を夫に見ていたことに気づいたのである。
さらに女性は、このまま過去の呪縛にとらわれて、同じ行動を再現し続けると、早晩結婚生活は破壊され、終わりになることを悟ったのである。これまでは、夫が思いやりのない悪い人だと思っていたので、別れてもいいとさえ思っていたのだが、もし母親に対する怒りに今も操られて自分の人生を壊す結果になっているのだとしたら、それはあまりにも馬鹿げていないだろうか。
そうした新しい洞察が生まれたことから、彼女は本気で夫との関係改善に取り組むようになり、離婚を回避できたのである。
このようにメンタライジングは、過去の愛着の傷によって起きていることが、現在の愛着関係を破壊しようとしているという悪循環を明らかにする。愛着障害によって、過去に苦しめられただけでなく、現在も苦しみ、未来さえも台無しにしようとしていることに気づいたとき、その呪われた運命から一歩外に出ることができるのだ。
過去の体験から現在、未来へと連なる歴史的な視野に立つとき、初めて人は、自分を動かしている個人を超えたものの支配に気づき、それに操られないことを学び始める。
相手の気持ちを読み取る「認知的メンタライジング」
脳科学的な研究が進むにつれ、相手の心を推測する働きにも二種類のタイプがあることがわかってきた。一つは、相手と同じ気持ちになることで、それを感じ取る働きであり、「共感的メンタライジング」という。
それに対してもう一つは、共感して同じ気持ちになるわけではないが、相手の気持ちを読み取る能力のことで、「認知的メンタライジング」とか「分析的メンタライジング」と呼べるものである。両者は別な働きではないかと考えられるようになっている。
将棋の駒でも動かすように、人の気持ちを操るのが上手な人がいるが、このタイプの人は、必ずしも、自分を振り返ったり、相手の気持ちを汲み取ったりすることに長けているわけではない。客観的な分析能力は、新しい進化の産物で、愛着の安定性にも、どうやらあまり寄与しない。
むしろ、客観的な分析力に長けている人では、人に対してクールすぎて、心の通った親密な関係を結ぶことに関心が乏しいことも珍しくない。他人を心理的にコントロールして、利用するような危険な人物の中には、後者の分析的メンタライジングの能力ばかりが発達していることもある。
愛着の安定化に必要なのは、むしろ前者であるが、後者がまったく未発達でも、狡い人にだまされたり、攻撃をかわせなかったりということになってしまう。安定した対人関係を維持するだけでなく、有害な相手から身を守るためには、客観的に状況を把握する能力も必要で、両者がバランス良く発達していることが大事だといえる。
とはいえやはり、支援者に求められるのは、分析的なメンタライジング以上に、共感的なメンタライジングである。冷たい分析をするだけでは、閉ざされた心を開くことも、凍り付いた心を溶かすこともできない。支援者の共感による本人の愛着の安定があってこそ、味わった痛みや寂しさ、怖さといった気持ちとともに、自分の身に起きた出来事を、客観的に振り返ることができ、それを乗り越えやすくなるのである。
人によっては、分析的メンタライジングは発達しているが、共感的メンタライジングが弱い人もいるし、その逆の人もいる。サポート役の人は、本人に不足しがちな部分を補いながら、両者のバランスを図る。そうすることによって、自分自身だけでなく、相手の気持ちや事情という観点からも、統合的に状況を見ることができるようにサポートしていく。