「安全基地」は、人間関係の中だけとは限らない
愛着障害を抱えている人のうち、「人」が安全基地となりにくい回避型の人にとっては、仕事や趣味の世界が安全基地となることも多い。このことも、重要な事実に思える。仕事や趣味の場という距離を保った関係であれば、他者とも無難にかかわることができ、そうした体験を通して、人間的にも成長できる。そこに自分の居場所ができ、また、その道で周囲からある程度の評価を得ることができれば、自分の存在価値を保つことにもつながる。
『月に吠える』などの作品で知られ、「近代詩の父」と称賛される詩人の萩原朔太郎は、典型的な回避型の人物だった。「町へ行くときも、酒を飲むときも、女と遊ぶときも、僕は常にただ一人である」と自ら書いているが、その方が気楽に自由を楽しめたのである。
開業医の長男として生まれ、生来虚弱で神経質だったことに加えて、過保護・過干渉に支配されて育ったことにより、主体性の侵害が起き、適応力を育み損ねたようだ。
そんな朔太郎にとって、学校での体験は、きわめて苦痛に満ちた、過酷な時間となった。イジメを受けることで、愛着は傷つき、相手にどうせ受け入れられないと思って、人に心を開くことのできない「恐れ・回避型」の愛着スタイルを身につけてしまったと思われる。
さらに追い打ちをかけるように、青年期に入るころから、朔太郎は、強迫観念に悩まされるようになる。好意をもっている相手に親しみを込めて語りかけようとすると、まったく正反対の罵り言葉が思い浮かんで、口をついて出そうになってしまうのだ。それが怖くて、友人付き合いもできなくなってしまう。
自分が悪いことをしてしまうのではないかという強迫観念は、厳しく躾けられた真面目な人に多く、実際には、悪いことをする可能性などほとんどないのだが、それをしてはいけないと思うと、余計にしてしまうのではないかと不安になってしまうのだ。
朔太郎は三十二歳で結婚して、娘が二人できるが、結婚生活は朔太郎には、かなり不自由で窮屈なものと感じられたようだ。結局、十年で破綻。二人の子どもを残して、妻は実家に帰ってしまう。翌年には、朔太郎にとって大きな存在だった父親が亡くなるということもあり、朔太郎はどん底の時期を迎える。酒量ばかりが増え、詩作は停滞し、生活はすさんだ。
そのとき窮地を救ってくれたのは、妹の助けであり、また詩や文章を書く仕事であった。
妹は、幼いころから兄のことを尊敬していたが、兄がピンチと見るや、兄のところにやってきて、家事や子どもの世話をし、生活を立て直してくれた。そして、何よりも、安全基地として朔太郎を支えたのである。妻とのぎくしゃくした関係から解放され、家庭の状況が落ち着くにつれ、仕事も前以上にこなせるようになったのだ。
それだけではない。あれほど人付き合いを嫌い、孤独癖の強かった朔太郎が、社交を楽しむようにさえ変わっていった。家庭の安定と仕事の両方が、安全基地としてうまく機能することで、朔太郎の愛着障害は、少しずつ克服されていったのである。