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広報部で週刊社内報に「図解日本航空」を執筆
私は1997年、47歳のときに大学教授に転身するまでは、日本航空に勤務していました。最後の役職はサービス委員会事務局次長でした。ここで、私の転身について、自由を構成する4つの指標から読み解いてみたいと思います。
日本経済はバブルがはじけて、1991年ごろから急速に悪化していました。
日本航空も湾岸戦争(1991年1〜2月)の影響で海外旅行客が激減、また、全日本空輸が国際線に進出し、アジア各国の航空会社は安い賃金にものをいわせるので競争が激烈になり、500億円の赤字を出すなど窮地に追い込まれました。採用数の極小化、外国人乗務員の雇用増加をはじめ、リストラ策が続けざまに打たれるようになりました。
社内の危機感が高まり、社運をかけた改革を行わざるをえない状況になります。
大企業病が蔓延した官僚体質を払拭し、顧客サービスを第一とした競争力のある会社に生まれ変わらなければならない。
日本航空の抜本的な改革を断行するための委員会が設置されます。リストラを使命とする構造改革委員会とともに、本業の復権を使命として設置されたのが社長直轄組織であるサービス委員会で、私はその事務局に入りました。
異動を内示されたとき、私は、この委員会での仕事は非常に難しいものになると予感しました。社内からは、うまくいくはずがないといった冷ややかな視線が向けられていました。いままでのビジネスマン生活で磨いた能力と、その間に培ってきた人間関係の総力を挙げて取り組まなければ、必ず失敗するだろうと緊張したのを覚えています。
まさに、行く手も定かでない航海に海図なしで出航するという感じでした。
サービス委員会に入る前、私は1986年から広報部に所属していました。当時、それまで半官半民だった日本航空は1987年の完全民営化に向けた準備を進めていました。社内コミュニケーションを改善し、各種専門集団の寄せ集めでバラバラだった社内をまとめ、1つの方向に持っていくための社内広報も私の担当する仕事でした。
その一方で、私は仕事と並行して、知研の活動も続けていました。広報部にいたころには、知研の活動の1つの成果として、「図解コミュニケーション」という考えが熟していました。広報部に移る前、客室本部業務部にいたときから、仕事に図解を用いて効果を発揮していたので、図解の威力は実感していました。
図解は、比較的多量の情報を迅速かつ的確に伝えることができます。
そこで、毎週月曜日の朝に発行する週刊社内報に「図解日本航空」というページを設けて、図解を3〜4つ載せ、やさしい文章で会社に関するあらゆる情報を紹介することにしました。
社長の動き、現場の動き、経営の意思決定の仕組み、人事体系、各部署の仕事、会社の社会貢献活動、厚生問題などの社内情報から、航空行政、航空事情、旅客・観光事情、航空機の発達の歴史まで、幅広く多彩に取り上げました。
これを読んでいると、社員の誰もが、知らず知らずのうちに日本航空の全体像と、そのなかでの自分の部署や自分の仕事の位置づけが理解できるようになることをねらいました。この「図解日本航空」は大変よく読まれました。
在任中に約200号まで出し、載せた図解は500図以上に達しました。図解がどれだけ効果を発揮するか、その実験台として週刊社内報を使わせてもらうことができたと同時に、この経験により、図解を作成する能力が格段に向上し、図解コミュニケーションという考え方に対して大きな自信を得ることができました。