(※写真はイメージです/PIXTA)

戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した医師に、曲直瀬道三がいます。道三は日本医学中興の祖として田代三喜・永田徳本などと並んで「医聖」と呼ばれています。今回はその道三の生涯と彼に関連する場所を巡ってみましょう。

恩師との出会いが道三の未来を決めた

曲直瀬道三は京都の相国寺門前町の柳原(現・上京区柳原町)で生まれました。幼くして両親と死別したと言われていますが、一説には道三が生まれた翌日に両親は亡くなったとも伝わっています。

 

道三は、永正13年(1516)、五山文学の中心であった相国寺で、喝食(かっしき・・・禅寺で衆僧に食事の順序を大声で知らせるなどの役割をつとめる僧)となります。空いた時間には詩文などを勉強に励みました。やがて関東へと出向き、今の栃木県にあった足利学校で漢、唐の詩や算理博物学を修得しました。

 

そんな道三の人生に、転機が訪れます。足利学校の先輩でもあり、すでに名医として知られた田代三喜と出会ったのです。道三は三喜に入門し、李朱医学を学びました。その懸命な姿と才能を見込んだ三喜は、道三を後継者として指導したといいます。そして道三は三喜の死後、李朱医学を広めていくのです。

 

道三が京都へ戻ったのは天文15年(1546)のことでした。医業に専念すると、彼の名声は室町幕府にまで聞こえるようになったのです。そして第13代将軍・足利義輝を治療する機会に恵まれました。幕府から認められた道三は、その後援もあり啓迪院(けいてきいん)を創建するのです。

 

この啓迪院とは、今で言えば医科大学のような存在。道三は日本医学界発展のためには人材育成が必要と考えたのです。そして啓迪院からは、後に800名ほどの人材が世の中に巣立っていくことになりました。

 

道三の名声は日々あがっていき、天正2年(1574)、道三の噂は朝廷にも届きました。道三は正親町天皇に拝することになり診察をしたのです。それだけではありません。戦国時代を統一間近だった織田信長のことも治療しました。その後も医者として活躍した道三は、やがて豊臣秀吉の治療もしただけではなく、徳川政権になってからは徳川家ご用達となり、江戸後期まで道三が定めた医療方法は引き継がれていったのです。

医学の発展のため、数多くの医学生を送り出した

この道三が多くの医学生に学びの場として開設した啓迪院ですが、その跡地は残されていません。ただ、文献からわかっていることは「上京の新町通上長者町下ルにあった」との記載からある程度、特定はされているようです。

 

また、幼いころに道三が修行をした相国寺は、京都五山第二位に列せられる名刹(めいさつ・・・有名なお寺のこと)です。室町幕府の第3代将軍・足利義満により創建されました。幾度も何度となく焼失と復興の歴史を繰り返すのですが、現存する法堂は慶長10年(1605)に再建されたものです。ちなみにこの法堂は、日本最古の法堂建築として知られています。

 

京都観光で有名な金閣寺や銀閣寺は、この相国寺の塔頭寺院。相国寺は臨済14派のうちのひとつです。

 

また、道三は天正12年(1584)、豊後(今の大分県)でイエズス会宣教師オルガンティノを診察しています。そして、これをきっかけにキリスト教に入信、洗礼まで受けました。それから約10年の後、道三はこの世を去ります。道三の墓所は京都・十念寺にあり、そこには「一渓道三居士、文禄三年正月四日」と刻まれた石碑が現存しているのです。

 

杉田玄白による解体新書が発表される200年も前に活躍した医師だけに、人体のことについては現在解明されていることと比べれば見当違いなことも少なくなかったのではないかと思われます。しかし、医学の発展を考え、数多くの医学生を送り出した事実など、計り知れない実績が大きいことも確かです。紅葉シーズンになると観光で人気のある京都ですが、コロナ禍が過ぎ去ったあかつきには、曲直瀬道三の功績に思いを馳せて旅をしてみたいものです。
 

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