療法士としての使命を痛感した「強烈な出来事」
訪問リハビリを始めた当初、私にとっては療法士としての原点となるような、ある強烈
な体験がありました。
その体験があったから私はいまも訪問リハビリを続けているといってもいい。この仕事の本当の意味とその使命感、そして人さまのために「尽くす」ということの本質を、私はこの利用者との出会いから会得したといってもいいと思います。
それはこんな出会いでした。
「せんせい、ぼくのびょうきはなおりますか?」
ある日いつものように訪ねたとある家の一室で、意思伝達装置のモニターにそんな言葉が映し出されました。
目の前には寝たきりになった利用者が横たわっていました。その方は55、56歳くらいだったと思います。まさに人生の脂が乗りきった頂点で突然の病に襲われ、他者とのコミュニケーションの手段はこの意思伝達装置しかないという状態でした。一命はとりとめたものの、自分の生命を維持するにも他人の手に委ねなければならないという、重度の障害を負ってしまった方でした。
その人が必死に打ったモニターの文字を、私はいまも鮮明に覚えています。忘れることはできません。
その方は、身動きできない状態ながら、私に必死でこう語り掛けていたのです。
――この後遺症は回復するでしょうか?
身体は動かないまでも、その脳裏では必死に自分の身体と未来のことを考えている。
そのことがモニターの文字を通して伝わってきて、私は身も心も固まってしまったのです。
この人に私はなんと言ったらいいのか? 回復の見込みはないことをどう伝えたらいいのか? 愛想笑いなどできるはずもない。なにをどう伝えたらいいのか?
彼が自分の意志でできること。それはこのモニターに文字を写すことだけでした。
けれどこの方は、答えに窮している私を見て、次にこう打ってきたのです。
――しにたい
自分自身で唯一できることを使って表現された言葉。それが「死にたい」だった。
その文字を見て、私は思わず涙が出そうになりました。自分がこの人の立場になれば、やはり死にたいと言うのではないか。けれどこの人は、自分で死を選ぶこともままならない。