千栄子を他の女優と取り替えることができない存在
東映は戦後に誕生した新興勢力だが、東急の資本力を背景に製作本数を増やし続け、撮影所も戦前とは比べようもないほどの規模になっていた。
先述のように、千栄子が映画界に復帰した昭和27年(1952)には、日本全体で年間278本の映画が製作された。それが翌年になると300本を越え、4年後の昭和31年(1956)には500本を突破している。
映画館の数もまた急増していた。戦災で多くの映画館が焼け、終戦直後は全国にわずか35館を数えるだけだったという。しかし、5年後の昭和25年(1950)には、それが2410館に増えた。さらに5年後の昭和30年(1955)になると、ほぼ倍増して5184館に。
昭和初期の長期不況の時代と同様に、戦災で焼き尽くされ、すべての産業が壊滅した昭和20年代の日本で、映画は数少ない成長産業だった。どこでも週替りで3本立ての上映が行われ、常に大量の新作映画が必要とされていた。映画館には新作を待ちわびていた人々が押し寄せる。
戦後の黄金期に入った映画業界の現場は、オーバーワークを強いられる。
太秦にある各映画会社の撮影所では、深夜になってもスタジオの照明が落とされることがない。役者やスタッフは、寝る間も惜しんで映画を撮り続けた。
そうせねば撮影スケジュールをこなすことができない。昭和20年代にはまだ合法だった覚醒剤のメタンフェタミンが、「ヒロポン」という商品名で薬局でも売られていた。それを注射しながら、何日も眠らずに映画を撮り続ける豪傑もいたという。日本のハリウッドは、現在では想像のできない狂騒と活気にあふれていた。
「とにかく、物心ついてからずっと、それ働け、やれ働けで、ただの一分も動かぬときはありませんでしたから、体格が骨太にでき上がっているのですよ。ぜい肉のつく余地のないほど、骨組みが太いのですね。私の取りえは、このからだの骨組みが、ガッチリでき上がっている、ということだけですよ」
と、『水のように』でも語っているように、すでに40歳を過ぎていた千栄子だが、体力には自信がある。徹夜が続くことも珍しくない撮影現場も、昔のことを思えばそれでもまだ楽とさえ思えてくる。
浪花千栄子を他の女優と取り替えることはできない。
この役ができるのは彼女だけ、監督や映画会社からそう思われるようになっていた。だから過酷な撮影現場では、スタッフが主役と同じくらい脇役の千栄子にも気を遣う。
自分がこの映画にはなくてはならない女優であることが察せられる。やっと、邪険に扱われることのない、唯一無二の存在になることができた。そう思うとハードな撮影も楽しくなってくる。
青山 誠
作家
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