「死」を認められず、全力で避ける日本社会の悪癖
私は、この問題の根本には、日本人が人生の終わりに必ず訪れる「死」を受け入れられないことが関係していると感じます。
国民全体の意識のなかにも、年齢や心身の状態、本人の意思などにかかわらず、いついかなるときも「死は全力で避けるべきもの」という感覚があるようです。
2020年7月、公立福生病院透析中止事件の民事裁判が行われました。これは2019年3月に、毎日新聞が「透析患者に“死”の提案(大阪版)」「医師、『死』の選択肢提示透析患者死亡(東京版)」と題して一面で報道した事件で、医療関係者の間でも話題になりました。
ことの経緯は、腎臓病を患い人工透析を受けていた40代の女性に対し、公立福生病院腎臓病総合医療センターの担当外科医が、透析を続ける治療とともに透析をやめる選択肢を示したところ、女性は病院が用意した「透析離脱証明書」にサインをし、透析を中止し、1週間後に亡くなったというものです。毎日新聞の報道では、医師がまるで患者の治療を放棄し、死を誘導したかのような表現に終始していました。
私たち医療者からみれば、病院側は患者が透析を続けてくれたほうが収益になりますから、むしろ「患者の意思を尊重したまじめな医師」に思えましたが、この記事を書いた記者には、透析を続ける大変さや透析中止を自ら選んだ女性の本当の思い、そして、「本人の意思に基づく医療」というものに対する基本的な理解が欠けていたのかもしれません。
その結果、患者の死を招いたことを責め、糾弾するような論調になったのだと思いますが、全国紙でこうした報道がなされると、ますます社会が「死」を認められなくなると、私は暗澹たる気分になったのを覚えています。
私は「年齢で命を選別するべき」とか、「年をとったら(病気が進行したら)死んでも仕方がない」「全員が死を受け入れるべき」と主張したいわけではありません。
年齢にかかわらず、できる限りの治療を受けたいと”本人が”望むのであれば、それを行えばいいと思います。それができるのが日本の医療の強みですし、医療関係者もそれに応じて力を尽くすはずです。
けれども同時に、長く人生を生きた人や闘病を続けてきた人が「もう治療は十分だ、静かに人生を終えたい」と思うようになるのも自然な感情です。人生の終わりとしての死を受け入れ、それまでの時間を穏やかに過ごしたいという人がいれば、その思いも同じように尊重されるべきです。家族間の葛藤や社会システムの都合でそれができないのは、成熟した高齢社会とはとてもいえません。
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