日本の高齢者介護は、医療費抑制や病床確保、あるいは本人の希望により「病院から在宅へ」大きく変化しています。それに伴い、制度の拡充も図られていますが、使い勝手がいいとは言えず、また、介護者の多くも時間確保等の切実な問題を抱えています。本記事では、自身の両親の介護問題から離職し、看取りまで行った医師が、自身の経験をもとに日本の介護システムの問題と改善点を提言します。

開業医としての生活と、両親の介護生活が同時スタート

実家に戻り、父の医院を継いで開業医としての生活と、両親の介護生活が始まりました。当初私があまり介護生活の大変さを感じていなかったのは事実です。なぜなら、介護者である自分は医師であり、被介護者である父も医師、母もある程度医療の知識があったからです。

 

しかし、介護生活を続けていくなかでさまざまな困難にぶつかるのだと、私はつくづく実感したのです。

 

家に戻ってからの生活は、普段は9時からの医院での外来から始まります。この時間の区切りは関西特有のシステムで、9時から12時までが午前診、午後診は16時30分から19時までとなっています。12時から16時30分までが空くので、この時間帯に在宅医として患者さんのお宅を訪問していました。普段は、一日に2、3軒といったペースで回っていきます。

 

一方で、大学病院を辞めてから数年間は週に一度のペースで大学病院での外来も診ていたので、その一日は医院での外来、在宅訪問ともに休診となります。数ヵ月に一度ぐらいですが、早朝に患者さんが亡くなられたという連絡が入り、その看取りを終えてから大学病院に向かったこともあります。

 

いまもそうですが、医師の仕事だけをとってもなかなかに多忙だったことを記憶しています。

 

ただ、いま思うと、まだこの時期には本格的な「介護」には入っていなかったといえます。まだ両親が二人とも、自分のことは自分でできる状態でしたので、とりあえずは二人の様子を見にいくぐらいで、普通に会話も交わしていました。

 

介護によって、外来や在宅訪問の時間が削られたりするような出来事も起きていなかったのです。むしろ、この時期は開業医として、在宅医としての仕事に慣れていく必要のある時期だったため、仕事に多くの時間を割くことができたことは、よかったのだと思います。

 

一方で、仕事を辞めた父と話す機会は増えていました。認知症の自覚は以前から多少あったものの、医師を辞めたときには、肉体的な衰えも感じていたようです。例えば、耳が聞こえなくなってきたことは強く自覚していて、聴診器を当ててもよく聞こえないケースがあったといいます。不安にさいなまれ、そして自信を喪失していき、父もまた内心では苦しんでいたのでしょう。

 

そんな父の姿を見ていると、大学病院を辞めて開業医になるという選択は決して間違っていなかったという気がしました。

 

佐野 徹明

医療法人さの内科医院院長

 

 

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48歳、独身・医師 在宅介護で親を看取る

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佐野 徹明

幻冬舎メディアコンサルティング

開業医である父が突然倒れた。父の診療所を継ぎ、町の在宅医としてそして家では介護者として終末期の両親と向き合った7年間。一人で両親を介護し看取った医師による記録。

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