「育て方が悪かったから」の誤解につながる恐ろしさ
発達心理学は魅力があり、多くの人が興味のある分野のようです。しかし発達障害を考えるに及んで、誤解を含む可能性は否めません。
先にあげたように、乳幼児期には母親や他人の識別、言語の獲得、児童期には集団性、社会性の獲得などが発達課題としてあげられますが、発達障害のある子はなかなか達成できません。
それに対して、それぞれの発達段階の発達課題の達成が障害されたから発達障害になったのだという考えに結びついてしまうかもしれません。発達障害の発達は、誕生以降加齢によって前進する発達というよりも、生来の脳神経的特性として、ある種の発達が障害されている状態に関することです。
発達心理学的に、その発達時期における家族や学校の対応がまずかったので、大人になってからは職場や家庭の対応がまずかったので、発達が障害されたということではありません。現在は多くの研究によって、生来の脳神経的な問題であることが認識されています。
もちろん人に関することですから、成育歴の中で症状の増悪などの影響もありますが、基本的に親などによって発達が妨げられたから発症したということではありません。本来的な発達心理学の意図ではなくとも発達課題は達成すべきものだという観念、あるいはこう育てたらこうなるというような因果論的な考え方は、これまでも発達障害の子どもを持つお母さんたちがさらされてきた、育て方が悪かったからではないかという誤謬につながります。
そうではないのです。現在、発達障害は脳神経の問題として社会性やコミュニケーションや認知など、ある種の発達が障害される、先天的な障害であるとの認識に至っています。
だからといって、まったく変化しないとか成長しないと言っているわけではありません。発達課題の達成というような成長発達でなくとも、日々変化、成長します。それはすべての人においても同様です。
それぞれの発達段階の発達課題を完璧に達成してきたという人はおらず、この時期にこの発達課題を達成するのが当然だということでもありません。ひとつの指標です。不安をあおる材料となるのであれば、それはつらいことです。
そしてまた、障害だから状態は変わらないというもの誤解です。身体障害においても、視覚障害のある人は白杖を使い戸外も歩けますし、点字で小説も読めます。聴覚障害のある人は口唇を読んで何を言っているのかわかりますし、手話でたくさんおしゃべりもします。
障害は多義的な概念です。障害されている部位があるという事実と、それがどのように機能しているのかという状態と、生活するうえでどのような不都合があるのかという状況があります。
それはまた、ずっと同じ状態ではありません。加齢によっても、環境の変化、治療や努力によっても変わります。
本記事は連載『“発達障害かもしれない人”とともに働くこと』を再編集したものです。
野坂 きみ子